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子育ての教育観についてのあれやこれ

わたしの息子(コータ)は小学生。コータにどんな教育を施すか、というのは私にとってはどんな時も最大の関心事だったように思う。夫からは「教育ママだ」と揶揄される事もあるほどに。

思い返せば、妊娠中、子どもの名前を考える時に、「どんな人に育ってほしいか」という観点から文字を一緒に選んだ。夫は「何はともあれ優しい子に育ってほしい」という願いを持っているとその時はじめて知った。「優」という字を入れるのは画数的に厳しかったので却下された。そしてわたしたち夫婦にとっては「光」という字を入れたいという思いが重なった。自分が光であることを思い出せるように。

胎児の時から教育は始まる。わたしは常にお腹に話かけていたし、お腹の中にいる時に聞こえてくる声は、世に出てから懐かしく親しみが湧くらしいと聞きかじっていたので、積極的に大好きな人たちの声をきかせていた。胎児の時からコミュニケーションは始まっており、お腹を蹴るタイミングなど面白かった。できるだけ美しい日本語を聞かせたいとも思っていた。それは今でも同様だ。

生まれ出たら、やれ英才教育だ。となった。しかしそうなったのは私だけで、夫も母たちも反対した。周囲との調和の波動が大切だと判断し、わたしは英才教育の教室に連れて行かなかった。当時はこれは大失敗なのではないか、と不安に思ったが今は後悔はない。

赤ちゃんには、素晴らしい演奏のクラシック音楽やジャズを聴かせようと思っていたら、同居していた夫の父が認知症を発症し、徘徊などもあるので、居間で母と目を光らせながら、赤ちゃんを抱いていた。母は大の演歌好きなので、コータは演歌の英才教育を受けていたように思う。わたしの人生において初の演歌だったが、母と暮らすうちに耳が鍛えられ、声だけで演歌歌手を特定できるほどになった。クラシック音楽からはほど遠い生活だった。

自分の理想と現実は驚くほどかけ離れるものだと知った。しかし思いもかけず夫の実家でお世話になり、コータはわたしが羨むほどのお婆ちゃん子に育っていった。母は何があってもコータの味方で、わたしがコータを叱ったら、コータは泣きながらバァの腕に抱かれに行った。それは今から振り返ってみると、本当にありがたい事だったとわかる。しかし当時は、甘やかしすぎなのでは?と不安に思ったものだ。

さて。本題の教育観だが、わたしの実家は高学歴だった。父は福沢諭吉の作った大学を卒業し、母はアメリカのカリフォルニア州立大学の大学院を卒業していた。わたしは当然のように大学院まで行くと母は思っていたようだが、大学を1年留年してから、かろうじて卒業させてもらった。母はわたしの結婚を望んでおらず、わたしを緒方貞子さんのようにしたかったらしい。つまり世界で活躍する人類の奉仕者である。そういう意味で母の期待は大きかった。我が家において「普通」とか「ほどほど」という言葉は一切きいた事がない。普通を目指すように言われた事は一度もない。

かたや、夫の実家はまるで逆だった。「普通が一番いい」「ほどほど」そして夫にいったてはわたしに中庸を説いてきかせる。夫はおそらくIQが高いし六大学は狙えたはずなのだが、それは頑張らないといけなかったのでスルーしたと。自分の実力以上のところを望まない彼。これには本当に驚いた。というのも、わたしが通っていた中高は進学校だったので、周りは少しでも偏差値が高い大学を目指して日々黙々と勉強する人たちだった。女子校だが、100%4大進学だった。しかも半数は国立大学に進学したと思う。

ところでわたしは女子校育ち。異性の目がない環境で6年間過ごした影響は限りなく大きいと思う。異性の目を気にしなくていいい自由さを謳歌した。その分、恋愛はごく一部の人たちに限られ、恋愛デビューは遅くなるが、それはそれで折り合いがついていた、ということにしよう。わたしは自分と同じようにコータも、男子校の6年間一環教育に身を置いてほしいと願い、受験を意識していた。ところがコータは「共学がいい」という主張を早い段階でしてきた。小学2年生だったように思う。

こういう親のわたしの目論見は、子どもの思いとは違う事が多い。更に、わたしは受験を伴奏できるほどの忍耐力もないので、ま、いいか。と、ここはすぐに手放せた。また、自宅から通えそうな男子校が無かった事も幸いした。

もっと遡って、コータが幼稚園に入る年頃のころも、わたしはキリスト教教育を実施している私立の幼稚園に入れたかった。しかしその園は評判はいいが電車で通わなければいけないエリアにあり、通園が困難そうだったので、結果的に近所の新設の子ども園に入園させた。わたしが思い描いていた精神性を説いたり語ったりする教育は無かったが、音楽教育に力を入れている園だったので、それはそれで大変ありがたく、おかげで音楽が身近に、更にYAMAHAを喜んで習うに至った。YAMAHAは小5の今も続いている。

この体験を経て、わたしは少しずつ母親として理解してゆく。コータはコータの人生をちゃんと引き寄せていると。わたしがあれやこれや頭を悩ませなくても、彼が、彼に相応しい先生やクラスメイトや学校がちゃんとあらわれると。わたしは彼の運命を信頼して身を委ね、無理をさせなければいいのではないかと、やっと自分ができることの限界を悟ったのである。放棄に近い感覚もある。

ところで、コータは2歳からLEGOで遊ばせていて、LEGOは彼の趣味の一つなのだが、わたしはコータが園にいたころから、「とーだい」というところに「LEGOぶ」というLEGOをつくることができる大学があると教えていた。コータは今でも文学部や医学部と並んでLEGO部がある東大に行きたいと考えている。そういう刷り込みみたいなことをさりげなくやってみてはいる。が、はたしてこの洗脳がどのような効果をあらわすか、全くの笑ネタで終わるか、いつか明らかになる日がくるだろう。どちらに転んでも楽しみだ。

コータの教育に関して、いや、子育てに関して、わたしが最も大切に思ってきたことは、彼がどんな時も自分で自分を幸せにできる人間に育てあげることだ。親として子どもに望むことは子どもの幸せしかない。でもそれは親が幸せにしてあげることではなくて、本人の力が必要になってくる。この部分を鍛えてあげることができたら。と願ってきた。

わたし自身はキリスト教教育を受けて育ち、それを指針にして生きてきた。しかしコータには「論語」が似合う。と勝手に判断し、論語の素読をさせている。わたしが今になってやっと学んでいる「中庸」つまり「ほどほど」に早くから親しませてあげたかったのもある。そして、彼が大人になって、何かに迷った時の指針となるように、正しい人間関係を築くきっかけを論語などから得てほしいと願ったからだ。論語だけでなく絵本や児童文学の読み聞かせも惜しみなくしてきた。

もし、また子どもそ赤ちゃんの頃から育てることができたら、わたしが迷いなく実行するのは、ゼロ歳からの絵本の読み聞かせだと思う。絵本の読み聞かせの効能は一言では語れない。でも一つ素晴らしいのは、想像力を養ってくれることだ。そして色んな世界を旅させてくれる。彼は間違いなく読書家だ。すでに本を愛している。漫画もしかり。

超学歴社会の日本であり、学歴もそれなりにあると便利だと思うが、教育というのは、もっと広い視野で見た時に、その子の精神性を養い、周囲とのコミュニケーション能力をどんどん磨いていきながら、自分がワクワクすることに向かっていく自由さを得ることなのではないかと思う。それを学ぶ場所は結局本人が引き寄せるのだ。わたしたち親はそれを邪魔せず、どんな時も寄り添って見守ることができたら、と願う。わたしはすぐにエクストリームに走りがちなので、そういう時は夫がわたしに「れんちゃん、それはやりすぎじゃない?」と諭してくれるだろう。という点においてわたしは夫を信頼している。夫はわたしが行き過ぎなければ自由にさせてくれてきた。わたしに育てられている息子を不憫に思うこともあるようだが、それも息子の運命と受け入れてくれているようだ。身近に度量の大きい人がいる事を息子が気づかぬ内に手本として学んでくれていたらなぁと願う。


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