スクール・オブ・ロック

僕の中でロックというものは個々各々が自身と向き合い肯定するためのもの、と結論付けている。
そのために抗うべきときには牙を剥く必要はあると考えているが、一般には雑多に雑多に「反抗すること」「型破りで破天荒な言動をとること」と考えられていると思う。
ジャンルとしてのロックではなく概念としてのロックで言えばその考え方や捉え方はまちまちだし、それで良いと思っているが、このステレオタイプは一体どこから作られたのだろうか。

ロックの源流を探せば具体的な答えは諸説あるのではないか、見つかったとて今のステレオタイプとは結構違う色合いのものが出てくるのではないかと思う。
しかし、このステレオタイプのイメージを世界中で一般の認識へと変容させたのは、「スクール・オブ・ロック」に大きな要因があるのではなかろうか。
尤も、若輩者の僕が何を言っても知らない時代が多過ぎて全くの的外れにかもしれないが、少なくともロックをやっている側でない人にロックの印象をつけた作品ではあるハズだ。

物語は冴えないロッカー・デューイが教師になりすますところから始まるが、現実に言えば杜撰な体制だが「この作品はコメディーである」というのを一発で分からせてくれる、素晴らしい導入とテンポである。
真面目な生徒たちはデューイの教えるがままにとても表面的なロックのモノマネを始めていく。
このセクションでなかなか上手いと思うのは、デューイが一流のミュージシャンではないこと。
どちらかと言うとロックシーンの熱烈なファンであるの側面が強いキャラクターなのが実に良くて、カタチから入るタイプだからこその滑稽さや優しさがあり、己の信念でやっているロックではなく「ロックならこうする」という真面目さが垣間見えるからこそ鼻に付かずフレンドリーだ。
こんな人が教師だったら良いナーと思ったのは僕だけではないハズだ。
段々とデューイの描いたロッカーに染まっていく生徒たちがトラブルを乗り越えてステージでのパフォーマンスを終え、熱狂の中でクライマックスを終える。
その後に引き続きロックの指導をするデューイの姿で物語を追えるのだが、その最後の台詞はメタ的な要素も含まれていて、思わずニヤリとしてしまう。
ストーリーに過不足が無いし、バンドだけにテンポも走らずモタらずで良い。

そして出演したメンバーが時を越えて再集結したという制作の後日談もついていて、誰もがハッピー、作品もハッピーでとてもピュアなのが最高だ。
ロックといえば、というステレオタイプを打ち出しつつも、ロックというジャンルの由来にもなった攻撃性や排他的なものが無い。
誰もがデューイのように、その「ロックが持つ世界観が好きだ」という気持ちになれる、大変素晴らしい作品だ。

音楽はエゴとエンタメとビジネスで出来ている。
僕が普段から提唱している言葉なのだが、それはプロデュースする側の話であって、必ずしも音楽をやる誰もが持つべきということではない、と気付かされた。

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