カランコエの花

短編映画にはあまり触れていないのだが、Twitterで出会った同じ映画ファンでバイク乗りのフォロワーさんがおすすめしていて、普段見ていない世界も知ろうと思い鑑賞した。
そのフォロワーさんは突然アカウントを消してしまった。
らっこさん、むぅちゃんは元気ですか。

「カランコエの花」はLGBTを題材に描かれる学生ドラマである。
LGBTは差別や偏見をするものではないよ、おかしいことではないよと先生が説くも、残念ながら中高生にとって格好の玩具になるのが現実だ。
この作品ではその様子を克明に描いている。

ジェンダーに悩みを持つ主人公が先生に密やかに相談した後、クラス全体の場で先生がLGBTについて前述のような差別や偏見をしないよう指導するものの、却ってそれが話題に火をつけ、この中でLGBTの人は誰だ!となる。
最終的に友人にカミングアウトすることになるのだが、こういった実質的なアウティングというのは現実にあるだろう。
配慮したつもりが実質的なアウティングになってしまうという皮肉は、セックスとジェンダーについて論ずる上で、最も悩ましい問題な気がする。

僕も配慮はしていたつもりだったが、しかし友人と話の弾みでゲイを揶揄したジョークを言い、後になってあれは配慮できていなかったなと気付くことはたくさんあった。
実際に友人の中にゲイがいたことがあり、まんま「カランコエの花」のような実質的アウティングをしてしまったこともある。
人より気をつけているつもりでも、お互いがノーマルな性指向だと思っていても、何処かで何等かの揶揄になることがあるのだから、きっと完全に防ぐにはセックスやジェンダーにまつわるジョークを禁止するつもりでないと難しいのかもしれない。
でも追突されたらカマ掘られたって言っちゃうし、ふくよかな友人のお腹をポヨポヨしたくなることってやっぱりあるし、本当に難しい。

今の僕はRDにて「マイノリティーの最小単位は"個"である」と定義し、LGBTに限らずありとあらゆる属性が完全一致することなどないのだから、その人はその人というものの見方をしている。
これが今の僕が考える「最もフラットな思考」で、恐らく差別や偏見に対して声を挙げるよりも効果的で平等な考え方だと思う。
「配慮」をした時点でその属性に対して特別視していることに他ならないのだから。

前述のように気心が知れてくると「このあたりまではお互い同じ属性だろう、同じ物の見え方をしているだろう」と勝手に思ってしまうのは社会性を持つ生き物としてある程度仕方ないと思うし、そういった仲であれば「何かしらの属性に対して揶揄する言動」という意識が薄まってしまうのも確かだと考えている。
そこに甘えるべきではないと思うが、定期的に袖の振り方を見直すべきではあると思っている。
人間は完璧ではないが、より善い人間にはなれると信じている。

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