見出し画像

艶なる残滓、定期演奏会より

その日、コンサートホールは静かな熱気に包まれていた。

6月の定期演奏会を始め、毎年恒例の合宿も、室内演奏会も、おさらい会も、早稲田祭も、みんななくなった。「なんでこんなことに」と誰もが思った。その無念は簡単に晴れるものではなかった。苦しんだ。叫ぼうにも叫ぶ場所がなかった。途中で離脱した仲間もいた。引き止める声は届かなかった。家族からの冷たい目線に心を痛めた。オーケストラなんてやってる場合じゃない。悩みながら、一人で帰る。そんな日々に押しつぶされそうになりながら、それでも、それでもと音楽に向き合ってきた。諦めたくなかった。限られた練習時間のなかで必死にもがきつづけた。何度も溺れそうになった。無我夢中になれる瞬間を楽しんだ。殺伐とした現実を一瞬でも忘れたかったし、忘れることが出来た。

一つ言っておくと、これを美談として残したいわけではない。出来得る限りの感染予防対策が功を奏し、結果として一人の感染者も出すことなく本番を迎えられたものの、その道のりは常にリスクが伴う選択の連続であり、その道のりを行く勇気がほめたたえられる状況にももちろんない。運もあった。関わり合った人への感謝はしてもしきれない。自分も含め、今更引き返せないだけでみな惰性でやっているだけかもしれない。果たしてこれでよかったのだろうか? 単なる自己中心的な営みにすぎなかったのではないか? 自問自答を繰り返せば、たちまち虚脱感に襲われる。

ただ、忘れられない本番になった。あらゆる思いが交錯する舞台上で体験したのは、究極のコミュニケーションだった。身体を使い、楽器を通して互いに「共鳴」していく。それは一方通行的な「伝達」ではなく、共に同じ方向を見て、感じ、動く「生成」の状態であり、それは最早私たちの生活の中心となっていたオンラインという場では決して起こりえない反応の集積だった。それは生きていく上できっと大切なものを拾い直していく姿勢となった。

令和3年1月28日現在、緊急事態宣言の下、課外におけるサークル活動は再び禁止されている。自然とあの響きのなかに戻ろうとする身体をコントロールせざるを得ない状況に、日々フラストレーションは溜まっていく。不安も募る。どうしようもないのに、焦燥感に駆られるときもある。
しかし、あの時あの場所で消えたはずの音は、たしかに「ここ」に感じる。惹きつけられてやまないそれは、支えとなり、「むこう」への原動力となっていく。そして、前を向いたり後ろを振り返ったり、ただ立ちすくんだりしながら、おそらく何百年後も語られるこの孤独の時代の余韻を、私たちは刻み続けていくのだ。

(そ)

※伊藤亜紗『手の倫理』(講談社、2020)を一部参考にしています。
※色んな人(早稲フィル関係者)の話をベースに創作として書いています。その点ご了承ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?