タツキは「さよなら絵梨」で漫画と爆発で快を発生させる実用性の確認をしたい
さよなら絵梨を読むのは2度目
恐らく、藤本タツキの試みはあまり成功していない
何を試みたのか正確には言えないけど説明を試みてみた
でもやっぱりあれか、漫画の実用性の極大化か?
だから分析が難しいんだと思う
爆発が云々、みたいな話も、あると思う、ネットでの私刑とか、無責任な消費者とか
だから、それを爆発することで消化=昇華してるみたいな
まぁ、それもあるだろ、と思う
↓言いたい話
しかし、ここで試みられているのはもっと単純な話なのだと感じる
相対化だ、3層(もしくはそれ以上?)に入れ子構造になった「分かりづらいクソ漫画」も、抽象的な「爆発」によって全部好転できてしまうのではないか?という、その力、快を発生させる実用性の確認こそが本作なのではないか
全部上書きしてやるぜ~~~!!!!!である
だって、そうでなかったら、ラストが、爆発→「爆発オチなんてサイテー!」という、メタ発言で閉じるはずだから
この漫画は、満を持して、爆発してとじているわけであるので
また、内側で展開されるドラマは、全部浮遊したフィクションである、全体が中年の僕が作った映画であるから、劇中劇であるわけだし。エピソード(母に演じさせられている僕など)によっては劇中劇中劇中劇中劇?くらいの不信任感で用いられている
だから、あんなんは全部ハリボテである
唯一信じられるのは、爆発だけなのだ
これは、藤本タツキにしては珍しく、開かれた(明確に他者を使って反応を見てやろうという意志を感じる)漫画だと思う
いや、違うかも
あんまちゃんと読む気なかったけど読んじゃった
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?