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嫉妬の炎

いつからだろう、「すごい人」が出ているコンテンツを観るのが苦手になった。ハモネプ・東大王あたりがそうだ。観れば面白いし、すごいとも思うのに、なんだか積極的に見ようと思わない。つまらないと言うつもりも、ましてコンテンツや出演者を否定するつもりもまったくない。あくまでも私の側の問題なのだ。

子どものころ、そういった「すごい人」はあくまでも遠い存在だった。世の中にはこんな人もいるんだ、すごい、という純粋な気持ち。外野からコンテンツとして楽しめる私がいた。出来の悪さを馬鹿にするようなクイズ番組が流行っていた一方で、「賢い」人たちがハイレベルな勝負をするクイズ番組は楽しくもあったし、自分が難しい問題に答えることができれば達成感もあった。そういう楽しみかたが「普通」だろう。

高校生・大学生のころから少しずつ、すごい人に囲まれることが多くなった。割と懇意にしてもらっていた先輩はいまテレビで活躍しているし、本当に頭がいいなと思う友人もいる。しかもその人たちから自分が評価してもらえたりする。周囲がすごいだけで自分がすごいわけではないのに、その人と自分との表面的な優劣を比べては、自分もすごい人間だと思おうとしている。そうして自分に虚勢を張っているうちに、いつしか自分と、少し遠いところにいる「すごい人」との厳然たる差を直視できなくなった。

私の中に、自己肯定感が高まるのが遅かったという言い訳もある。小中学校で9年間、断続的に嫌がらせを受け続けた。子どもにとっては途方もなく長いそのあいだに自尊心はズタズタになり、防衛反応で感情も言動も刺々しくなった。凍てついた心を高校・大学・社会人と溶かしてもらうにつれ、あのときもっとまっすぐ心を成長させることが出来たなら、人間として成熟することが出来たなら、いま自分はどんな人物になれていただろうかと思ってしまう。自分よりずっと早く成長し・成熟した同年代のたくさんの人に引っ張り上げてもらったことに感謝しながら、どうしてあの人たちと同じラインに立つことが出来なかったのかと絶望する。

私だけがすごく不幸だと思うのも、「私は自分が不幸だと思っている」と思われるのも嫌なのだが、自分よりものびのびと成長し、まっすぐに研鑽し、才能や努力の花を咲かせている人たちに対しての嫉妬がどうしても消えない。「枠」からはみ出た人生を送る勇気もなく、真っ当であることをアイデンティティにせざるを得ず、自分もすごくなろうとがむしゃらになるわけでもない。失敗を恐れ、安全な道を辿ろうとする、私は普通の人なのだ。

「普通の人」として普通に生きようとしている一方、我が道を行く人生にも思いを馳せる。気にしいで後ろ指を指されるのが嫌なくせに、それをものともしない強さに憧れる。ときどきこの乖離が自分の中でねじれては、ぐちゃぐちゃになって悲しみを運んでくる。いつになれば、そうやって立ち止まらずに前にすすめるようになるのだろう。四十にして惑わずと言うから、あと10年後くらいだろうか。

5年ほど前、いまよりもさらに低次元なレベルで、似たようなことにウジウジと悩んでいた。そこから解放されたように思っても、目を背けていただけで、実際は大きく変わっていないのだろう。

かつて厚切りジェイソンが言っていた。「何かをしたいと言いながら実際に行動しないのは、本当は「したくない」と思っているということだ」と。その言葉を胸にここ数年前に進んできたつもりだったけれど、昨今の時勢の影響かもしれない、いまはすっかり停滞している。もっと呑気で元気でいればいいのかもしれないけど、楽になるために思考を放棄して、結果的に愚かなことをしたり、誰かを傷つけたりするようなことは絶対にしたくない。

これもまたコロナのせいなのだ。なんでもコロナのせいにしてしまえばいい。

気兼ねすることなくみんなで笑い合える日が、早く来てほしい。