友達が読書の感想をツイートしていた。その感想に出てきた登場人物があまりに自分の境遇と酷似していて「オレのことを言っているのか!!?」と思わずにはいられなかった。本当は他のテーマで文章を書いていたのだけれど、思考が止まらないので、先にこちらを書こうと思う。

子どものころの自分にとって、母は自分の語彙と論理が通じる唯一の相手だった。母はあまり「子ども向けの言葉遣い」をせず、大人に話すのと同じような語彙で私に話しかけた。本来の対象年齢よりも高い本をよく読んでいたこともあり、私自身も「子どもらしくない」言葉遣いをしていたのだと思う。自分の考えどおりに言葉を選んで話すと、同級生には「お前の言葉は難しくてよくわからない」と言われた。

小学生のときは学校が大嫌いで教師と対話をしようという気持ちにはならなかったし、中学生のときは反抗期も相まって基本的に教師を馬鹿にしていた。学校は論理的でないルールを強いてくる場所だという認識があり、話が通じる相手ではないと思っていた。

父はかなりの口下手で何を考えているのかよくわからなかった。父母ともに自分の友達付き合いに子どもを連れて行かなかったので(そもそも2人とも友達付き合いが乏しかった)、話せる大人がほとんどいなかった。

そんな中では母は論理的であり、思考力や視座も高く、話していて唯一学びのある相手であった。だから子どものころの私は基本的にすべてを母に話していた。尊敬できる人物を聞かれたときも母と答えていた。高校生になって「友達と言語が通じる」ようになり、だんだんと母への依存度は下がっていったけれど、母はたいへん信頼の置ける相手であった。

大学生のとき「自分が完全に母を上回ってしまった」と感じたことがある。ホームセンターに買い物に行った際、レジが並んでいるのにも関わらず、ほとんどイチャモンに近いクレームをつけてレジを止めた。レジを済ませたあと「恥ずかしいからやめて」と言ったが、母はどこ吹く風であった。「ある歳を過ぎると恥を感じなくなる。」母の老いを感じたのだった。母が最も信頼の置ける存在ではなくなってしまった。

社会人になりたてのころ、仕事の行き詰まりや上司のパワハラに悩んでいたちょうどそのときに、母がマルチ商法にはまっていることが発覚した。教科書に書いてあるようなマルチの勧誘セミナーに実子の私を誘ったのである。こちらが精神的に参っていたのもあるが、電話口で「今すぐやめなさい!」と怒鳴りつけてしまった。ほどなくして私は心を病んで休職したのだが、そのトリガーの1つは、この母の行動であったと思う。

その後も食事に誘ってきたかと思えば怪しげな人を紹介しようとしたり、陰謀論にはまっていたりしていた。今は仮想通貨にはまっているらしい。母も母で、子育てをしながら精神的につらいことが多々あったのだろう、子どもが無事に自立して再び自分が人生の主役となり、箍が外れてしまったのだろうなどと同情することはあるが、子どものころにいた母の姿はそこにはない。

私の大学進学にともなう一人暮らし、就職を経て、母は完全に母親業を卒業し、私とは大人対大人として接したいらしい。おそらく大学生のころから、一般的な親子より連絡の頻度は少なく、距離感は遠めであった。今は私のほうから母を避けがちである。そうはいってもこちらもいい大人だし、優しく接しようと自分に言い聞かせるのだが、私の予想を上回る発言をしてくるので、思わず咎めてしまう。母も私に叱られると思うのか、必要な報告連絡をしないことが増えた。

実母というのは自分にとって唯一の存在である。仲の良い親子、大人になって、大人として適切な距離感で付き合えている親子、助け合っている親子、尊敬できる親、老後の面倒を見なければならないと思う親、そういう親ばかりであれば良いけれど、この世のすべての人が良い人ではないのと同じように、すべての親が良い親ではない。

私は母を悪者にして、母を遠ざけることによって、自分の中にある母を守っているのだと思う。母が人の道を踏み外したり、他の人に危害を加えたりしないことを願っている。