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短編小説「池袋の女神」

「これに入れてきて」
 
診察室に乾いた声が響いた
医師は無表情にそう言って、私に白い小さな入れ物を差し出した
軟膏ツボ
 
「えっ、これに? あ、いや、あの、どうやって?」
「そこのトイレで出せばいいよ」
「と、トイレですか?」
 
医師の斜め後ろには、人気女優の木下舞に似た美人看護師が佇む
彼女の含み笑いがどうしようもなく気になった
 
私は居たたまれなくなり、消えてなくなりたい衝動にかられた
木下舞似の美人看護師は、私の困惑を察したのか、優しい口調で言った
 
「2時間以内に持ってきていただければ、検査できますよ」
 
「あ、そうですか。えーっと、なんとかします…」
 
軟膏ツボを握りしめ、私は逃げるように病院を後にした
 

「さて、どうしたものか」
 
その場しのぎで「何とかする」とは言ったものの
特にあてもなく、途方に暮れていた
それにしても、軟膏ツボって…
 
結婚して5年、妻はいまだに妊娠できずにいた
どうしても子供が欲しい私たちは、夫婦で不妊症治療を決意したのだ
 
治療を始めるためには、私の精子検査をしなければならない
検査には、射精後2時間以内の「生きた」精子が必要なのである
 
「だからといってトイレで出せ? なんてデリカシーのない医師なんだ!」
「しかも、私がこよなく愛する木下舞似の美人看護師の前で!!」
 
私はぶつぶつ独り言をしながら、あてもなく歩いていた


気づけば、西池袋の歓楽街が近づいていた
夜には縁日のような賑わいのこの街も、昼間は閑散としている
 
業務用の小汚い軽トラックがシャッターの降りた店舗前に横付けされ
作業着の若者が気だるそうに荷物を運び出している
 
煌びやかなアーケードは見る影もなく、錆やほころびが目立つ
カラスに襲撃された生ごみが道端に散乱し、異臭が鼻についた
 
帽子を深々とかぶりサングラスをかけた出勤前のホステスは、無表情に煙草をくわえながらパチンコ台のハンドルを握っている
 
歓楽街の昼間の顔は 客に歓楽を吸い取られた抜け殻のようだ 
 
私は足早にアーケードをくぐり 薄暗い路地に入っていった
雑居ビル。人一人しか通れないような狭い入り口から急な階段を上る

その先には、薄暗い古びたビルには不相応な、小綺麗なラウンジが目の前に広がる

ソファにゆっくりと腰かけてあたりを見回す
他に客はいなかった
壁には美しい女性の写真が所狭しに飾られている
 
「ご予約のお客様でしょうか?」
 
黒いタキシードを着た細身の男が、片膝をついて上目遣いに話しかけてきた
 
「いや、予約はしていないけど、いい娘いる?」
「一番早い娘なら10分でご案内できます。その次は1時間待ちになります」
「じゃあ、その娘で」
 
写真を見ることもなく、即決した
時間があまりない。でも、いつも私は祈っている
 
「どうか、女神と巡り会えますように」


10分後、タキシードの男が近づいてきた
 
「お客様、ご案内いたします」
 
この瞬間が一番ドギマギする
 
自らが決意しなければ、一生交わることも、出会うことさえないであろう
今この瞬間、その運命の人と出会う瞬間が近づいている
 
まさに一期一会なのだ
 
案内された部屋の扉の向こうには、キャミソール姿の小柄な女性が、正座でおでこを床にこすりつけるようにお辞儀していた
 
私は遠慮がちに、手に持っていた軟膏ツボを彼女に差し出した
 
「あの、これにお願いできる?」
 
おもむろに顔を上げた木下舞似の女神が、私に微笑みかけた
 

短編小説「池袋の女神」完


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