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シン・エヴァンゲリオンを観てきました感想(ネタバレ込み:Vo.2)
こんにちは。
前回第3村パートがマジで好きすぎて色々書いちゃったので、ここからは巻きでいこうかなと思っています。いいだろ別に。
こんなお祭りは二度とないんだから、オタクの妄言を垂れ流しにしてもいいんだ。お前もアウトプットしろ!
では、続き。
第3村は他人とのコミュニケーションによる相互作用の重要性と、今までそれができていなかったことによるシンジ君の成長のなさ。
いつの間にか周りはみんな大人になっていて、次の世代に受け渡す行動をしているのに成長できない焦りや不安。自己嫌悪、自己否定。
そしてアヤナミレイに「碇君はそんなにみんなに嫌われたりしてないけど。というか結構好かれてるけど」と伝えられることで、もう一度自分や他人と向き合い、再起することを決めるパートだった。
結局一人で泣き続けて自己批判・自己否定を繰り返してスッキリするまで待つっていうのも現実からの逃避行動で、まあ元気になることもあるかもしんないけど時間かかるよねということなのかなと思う。
他者(ここではアヤナミレイが言ってるから虚構からの手とも取れる。どちらからでも同等によい)差し伸べられる手に気づくことで、シンジは自分のしたことの落とし前をつけることにして、自分以外の何かを救うことをしっかりと意識する。
あと前回書くのを忘れてたけど、ミサトさんと梶さんの息子が出てきてたな。
ミサトさん自身は母親らしいことは何一つできないと言って彼に会わない選択を取っていたが、息子を含め人類の絶滅を防ぐという方法を取っていた。
かつてシンジ君と自分の境遇を重ね、自分が母になろうとしていたミサトさんは、結局失敗してその時のことを深く悔やんでいる。
自分では母親としての資格なんてないと思っているのかもしれないが、実際に母となったことで母性という感覚を取得しているように見える。
先のシーンでシンジ君の盾になって銃弾を受けるとことか、自らを犠牲にしてまでも息子(及び全人類)を守るために槍を届けるところとか。
ヴンダーの中~最終決戦までの間だとアスカとマリの描かれ方が気になったかなあくらいの感じ。(ていうか今作のアスカの解釈については個人的にかなり迷っているところがあるので、ここに書いておくのは暫定のものです)
アスカは現在28歳だけどエヴァの呪いによって14歳の時点で身体の成長が止まっている。
人類を守る仕事をしているが、第3村でも人と関わることは少なく、ずーっとなんかつまんなそうなゲームをしている。
水しか飲まないし、夜眠れない。根本的に人間ではなく、解放されるのを待っている。
この「エヴァの呪縛」は、たぶん我々及びシンジ君にかけられているものとは全く違うもので、超巨大コンテンツ・アニメのキャラクターの悲哀だと個人的には思う。(もっとメタ的には声優さんにも向けられてるかもしんないけど)
虚構としてエヴァファンを魅了する役割を担う式波・アスカ・ラングレーは、ずっと14歳じゃなきゃならないし、シンジのことが好きじゃなきゃヤだし、ずっと同じことを繰り返してエヴァを存続させ続けなければいけなかった。
(カヲル君もそうなのかなあと思うけど、どうでしょうね。この辺整理できてないんだホント)
まず「なんで惣流じゃないの!?俺らのアスカは惣流なんだけど」って第一の槍を向けられた子でもあるしね。
長くアスカとして戦い続けてきた彼女はもうボロボロに擦り切れてて、かつて好きだった男の子も今見るとただの我がままなガキ。(でも雨の中シンジを見守りに来たりしきりに私がなんで怒ってるかわかる!?って確認してくるのとかかわいいよね……)
最終決戦に向かうアスカは「死に装束だから白のプラグスーツを選ぶ」行動を取るなど、もう任を解かれたがっている。
13号機に取り込まれたシーンで、アスカもまたレイと同じクローンだったことが判明する。
アニメ的脚本にプログラムされたシンジへの好意。
各種広告媒体、タイアップ、ゲーム、ゲーム、変なコミカライズ、変なゲーム……。あらゆる媒体にコピーされたアスカ。
こんなもんは全部所詮は虚構!ゴミ!オタクはカスなんだよ!!と言い始めると旧劇の繰り返しになってしまうし、「シンジがアスカをエヴァに乗って助けに来る」のも少年漫画の焼き直しになってしまう。(でも貞本版エヴァはメチャクチャキレイに終わったと思うよ俺は)
今作で「ただ頭を撫でてほしかったアスカ」を救うのはシンジではなくケンスケで、シンジは「僕も君が好きだったよ」と語り掛ける。
現実サイドに立ったシンジが、「僕も現実で辛いことがたくさんあったけど、アスカ(虚構)のことが好きだったよ。でももうエヴァのルールに則って僕を好きになり続ける必要はない」とする。
虚構のキャラクターであるアスカの救済を試みる、というのは本当に見ていて苦しく、そして嬉しいシーンだった。
あれっ、なんかずいぶん先のことまで言ってしまったな……。まあいいか。
マリの描かれ方は結構ずっと異質で、破で出てきたときからなんだコイツという空気があった。ずっと独り言言ってるし。
モロに現実世界の鼻歌歌ってるし。(いや、これはシンジもザ・ピーナッツ聴いてたりするからいいんだけどね)
ヴンダーでのシンジとの会話も面白い。
アッお前そういえば名乗ってなかったのかよ!っていう。
なんかこう、大学の大規模な飲み会のときに一人ワケわかんねー騒ぎ方してる変な女がいて、名前も知らないんだけど印象に残っててあるときまた後ろからワケわかんねー絡み方されて再会するみたいな。
オモシロ変な魅力的な人として描かれているように見える。
この映画の冒頭から「どこにいても迎えに行く」と宣言していたり、最後の最後にマイナス宇宙を超えてひょっこり来てくれるのもマリ。
こういう見方はどうなのかなあとも思うんだけど、やっぱこれ嫁さんがモデルなんじゃねーかなあと。安野モヨコさん。働きマン。
(そういえば第3村での図書館にもシュガシュガルーンのポスターが貼ってあった。そこでアピールする!?とも思ったけど)
やっぱワケわかんねー可愛いイイ女って、ワケわかんねーけどいいんすよ。(語彙減少)
自分の世界の外側から突撃してきてくれる異次元の存在としてマリは描かれてると思うし、一番近い他者として最後に手を取り合って歩いていくのもまた相互作用。
引っ張ったり引っ張られたりして進んでいこうジャンなんですよね。
話を最終決戦くらいのところまで戻そう。
ヴンダーVS冬月先生艦隊のシーンかなり良かった。
個人的にはQのヴンダーの戦闘に関してはだっせえな~!と思ってたんだけど、今回は戦艦型の誘導弾とか迫りくる大量のザコエヴァ軍団とかのアホで無駄でカッコイイことをふんだんにやってくれて嬉しかったね。
13号機のコアを封印するために2号機と8号機が降下したあとのシーンも最高。
両機のATフィールドを合わせて石破ラブラブ天驚拳みたいになるとことか、腕が吹き飛んでもオラッエヴァ喰って再生!みたいなことしてくれるとことか。
2号機のビースト化はもう終盤の伝統芸みたいになってて、個人的にはQの奴が全然良くなかったのでやらなくていいのに!と一瞬思っちゃったけど、今回は使徒の力を開放するということでついにアスカの眼帯が解かれる!
これもアニメ的に、エンタメ的にすんげー面白いというか気持ちいシーンで、ええ、良かったです。(晴れ晴れ)
2号機が破壊され、使徒になったアスカがトリガーとして連れ去られて戦闘パートはいったん終了。
黒き月そのものを槍として、アダムスの器たち、使徒アスカの魂、13号機でもって誰も知らないシナリオ外の儀式、アナザーインパクトが開始される。
この辺のシナリオ的な整合性とかここが伏線だったのだみたいなのはなんもわからん。お手上げ!
でも正直ここのモニョモニョ言ってるネタを全部拾ったり、マジで聖書読んで解釈しようとする必要は(今作に限らずエヴァという作品においては)無いと俺は思っていて、ここで言ってるのは「当初のアニメ新劇場版ヱヴァンゲリヲンの構成からはめっちゃ変えちゃったんスよw」ということだけだと思う。
今作でのゼーレのシナリオは、再構築したエヴァを作ろう!のテーマで序→破の流れとノリをそのまま進めることだったのではないか。
ネブカドネザルの鍵を用いて人間ではなくなったゲンドウ(というか、もう拙者人間ではござらぬのでそういう、ささやかな感情とか幸せとか家庭とか、なんかそういうのもう必要ないでござる!みたいなヒネ方をしたゲンドウ)との対峙のあと、シンジはもう一度エヴァに乗ることを皆に伝える。
ミサトがそれを容認しようとしたところで、北上ミドリが銃口を向ける。
オメーがエヴァに乗ったせいで家族みんな死んであたしの人生はメチャクチャだよと。
ここ!!!ここ本当に好きなシーンなんです。
ニアサーを3.11としての震災としても描いている前半のパートとはちょっと読み方が違って、というのもニアサーには人為的な原因があるわけで。しかもシンジ君の意思ではなく。
シンジ君がエヴァに乗ってニアサーのトリガーになったことで起きたあらゆる災害は、別にシンジ君がみんなぶっ殺したかったから起きたわけじゃない。
シンジ君がエヴァに乗らなかったら、私たちはみんな第一話の時点で死んでんだよとミサトさんが言う。
ここに重ねて銃口を向けてくる鈴原サクラのセリフが本当に良かった。
「シンジさんがエヴァに乗ってくれたから私たちは今ここまで生きてこられた。でも私たちの人生をメチャクチャにしやがったのもまたシンジさんとエヴァなんだ!!どうしたらいい!!!」
これ魂の叫びですよ。
物語的にも全くセリフ通りに読み取れる悲痛な叫びだし、ここで叫んでいるのは庵野監督であり俺達なんです。
コンテンツにより救われて今日ここまで生きてきたっていう経験と実感がある人は少なくないだろうけど、それに感謝するともに「もしオタクじゃなければこんなことには……」っていう現状の人もたっくさんいると思う。
それによってコンテンツ自体や自分の感性を批判・否定することによって苦しむ人々。
そしてそれは、ずっと苦しみながらエヴァを作り続けてきた庵野監督も一緒だったんだということなんだと俺は感じる。
「エヴァンゲリオンという作品を作って進んできたから今がある。けどこの作品作るのは苦しいし、何回も絶望と自己批判をし続けて俺の人生はメチャクチャだよ!あとゴジラとか全然エヴァじゃねえのにみんながそういう期待するから尻尾開いたり分裂したりとかやっちゃったしよ!!(これはただ単に好きな表現なのかもしんないけど)」みたいな声が聞こえてくるようだ。妄想ですけど。
アナザーインパクトが始まり、ここではない世界に存在する黒い巨人が巨大な綾波レイとなりヴンダーの進行を阻む。
ここで出てくる巨大綾波は、顔や手が実写になっていて、明らかに作品世界的に異物として描かれている。
北上ミドリもそれを見て「ありえないんですけど!」と言っていたが、ここでの「ありえない」はデカいからとかではなくて明らかにこの虚構世界ではありえない情報量の物質が目の前に出てきたから、というのが正しいんだろう。
マイナス宇宙で父ゲンドウの駆るエヴァ13号機と戦うシンジ君 in 初号機。
戦っている間に、場面が次々移り変わり、今までのエヴァンゲリオン作品に出てきた様々な情景に移り変わっていく。
初号機のケージ、初戦闘の夜、学校の教室、エトセトラエトセトラ……。
初号機がぶっ飛ばされると木の板でできたセットがへし折れたり、奥の壁に空が描かれた布が垂れ下がっている場面になったり、なんだか特撮を撮影しているセットのようになっていく。
どんどん現実と虚構がゴッチャになっていく。(「アニメという虚構の中で特撮のシーンを撮影している場面という現実を描く」というメチャクチャな入れ子の構造になっているのに見ただけで一瞬でスッと理解できるのが爽快だ)
特にミサトさんの部屋で戦うシーンは本物の親子喧嘩のようだ。
なんとなく刃牙の家に来た勇次郎とか、俺が18くらいのときに親父とマジバトルになったときのこととかを思い出した。
戦いの中で、父との決着はステゴロでつけるもんじゃないと気づくシンジ。
「父さんと話がしたい」
ここから、エヴァンゲリオンという作品自体の根幹がついに長台詞で語られる。
思えばシンジとゲンドウのこういう形での決着は、今までほとんどされてこなかったよなと思う。
人間が嫌いで人ごみにいたくなくて誰とも馴染めなくて、でも孤独がイヤだったわけじゃないゲンドウの世界に、ユイという異物が入ってきた。
他者との繋がりの中で生きることの喜びを覚えたゲンドウは、ユイが失われたときにまた孤独の中に戻ることが恐ろしくなっていた。
この辺のゲンドウの心境は、まあ今まで作品を追い続けてきた人なら大体は理解できていた部分だと思う。
だが、それだけに長台詞で絞り出すように語られると本当に切実だ。胸に来る。
息子と関わらないことが贖罪だとしてシンジを遠ざけてきたゲンドウ。
だが、対話の中でシンジの中にユイの面影を見る。
シン・エヴァンゲリオンは、シリーズの中でたぶんほぼ初めて「喪失を乗り越えて次世代に繋ぐこと。その中に自らの安寧もあること」を描いた。
初めから碇ユイはそこにいたのだ。
それを確認すると、ゲンドウは列車を降りる。
彼の安寧はここに成った。
場面変わって虚構世界のヴィレメンバーは、人口的に槍を作り出してシンジ君に渡そうと奮闘している。
ここシナリオ的には急すぎるしメチャクチャなんだけど、でも別にいいのだ。こっち側は虚構の世界なんだから熱血荒唐無稽でなにやってもいいのよ。
ミサト艦長が度々言っている「人類の知恵と英知を信じる」というのは、現実の戦後からの復興、3.11からの復興のことも言っているし、「虚構に現実を変えることができるパワーがあることを信じる」とも言っている。
もうこのあたりから庵野監督の自我から生まれ出てきたはずのエヴァという虚構も、すでに他者になっているのだ。
っていうか、普通創作物ってそうなんだけど。
小説とかは一人で書くからさておき(でも小説も出来上がってみると全然最初の想定とは違うもんができたりするやんね)
(あと正確には編集者とか出版社とかを通すからこの時点で一人で出来上がることはない。大学生が趣味で書いた小説とか、Pixivに上がっているようなやつは別として)、映画とかアニメとかは序段でも言ったがマジで滅茶苦茶な人数の人が関わってできているもので、監督の一念で出来上がるものではない。
作品が出来上がっても、それを世に出すまでに色々ゴタゴタがあったりね。
そこら辺の自覚がようやく固まったのは、シンジ君=庵野監督がリアリティで成長を遂げ、自身と作品の距離感をつかむことができるようになったからだ。と思う。
自らが生み出したエヴァンゲリオンが、自分そのもののその先を形成する糧となり、また自らを苦しめ、最終的に辿り着いたのがシンジ君の選択。現実も虚構も、倒すものではなかった。
つまり、現実も虚構も等しく愛するということだ。
自己と他者の間に相互作用があるように、現実と虚構にも相互に反応し合う作用があること。
そのどちらか一つを糞だと決めつけるのではなく、どちらもが自分を形成してきた過程だったとして、碇シンジは、現実も虚構もどちらも救済してエヴァンゲリオンの世界を終わらせる。
エヴァなき世界では、アスカはずっとつまんないゲームをしてなくていいしシンジ君じゃない誰かに頭を撫でられていい。
シンジ君がエヴァに乗らなくても済む幸せを模索しようとしたカヲル君も、考えを改めている。
最後に残ったほかに代わりなんていない綾波にも、エヴァのヒロイン、シンジの母ではない、他の幸福がある。
全てのエヴァを消し去り、海辺で座り込むシンジ。
だんだん色塗りがされていない状態→下絵と、動画ですらなくなっていく。
ここでこの作品も終わりか……と思っていると、最後に迎えに来てくれるのはマリ!!ここで世界に色が戻る。
やっぱり彼女は虚構サイドの住人として描かれていなかったのだ。
ラストシーン、エヴァンゲリオンのない世界で、それぞれの安寧を手にしたであろう各キャラクターが向かいのホームにいる。
目の前に現れるのは成長したマリ。爆死チョーカーを外してくれた彼女の手を取り、サラリーマンシンジは駅の外へと歩いていく。
もう彼は「明日を生きる」ことができる。
庵野監督は次にシン・ウルトラマンの公開を控えている。
もうその世界では、ウルトラマンの顎が外れて暴走して怪獣を食ったり、グロテスクで陰惨な描写が描かれることはないだろう。
もうエヴァンゲリオンは終わったのだ。
……だよな?
みたいな感じで、どうでしょうか!?
俺が今感じていることはほぼほぼ書いたかなあと思う。
何か書き足したいことがあったらいくらでもやるし、パンフレットとかはこれから読む。他の人の感想も死ぬほど読むと思う。
また感じることがあったら書きます。
とにかく言えるのは、シン・エヴァンゲリオンが今この世界で公開されたことへの感謝。
そして次々回作(があるのかはわかんねーけど)でまたQみたいなの作ってきたらマジギレするぞということです。
長文失礼しました。では。
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