見出し画像

シン・エヴァンゲリオンを観てきました感想(ネタバレ込み:Vo.1 第3村パート)

こんにちは。

思うところあってくそでかい虫から改名しました。毒霧噴之介と申します。以後もよろしくお願いします。


この一週間、観たくても緊急事態宣言で18時の回に仕事の後間に合うわけもなく、クソゲロまみれになりながら我慢していたシン・エヴァンゲリオンを観てきた。
今から鑑賞後すぐのできたてほやほやの俺の感情と妄想を書くのでよろしくお願いしたい。

ネタバレを含むので鑑賞後に見てね。

まだパンフレットも読めてないし他人の感想も一個も見てないので、本当に的外れなことを書き込んでしまうと思うし、妄想が多分に入り込むと思うが、そこはご容赦願いたい。色々見たり情報仕入れてからもうひとつ書くからさ、許してちょうよ。

(と言ったものの、どんどん感想が膨大になってきてしまったので記事を分けることにする。ここでは村のパートまで)



とにかく今言いたいのは、「とんでもねえ作品を作ってきやがったな」というのと、「(これはエヴァンゲリオンというシリーズを通して全部そうだけど)映画とかテレビ番組っていうコンテンツってこんなに個人の自我を反映していいんだ!?」ってことだ。

日本中を巻き込むでかいコンテンツになったエヴァンゲリオンには、そもそもアニメーション制作の時点でマジでたくさんの人間が関わって作成しているはずだし、宣伝広告、キャンペーンとかも含めると本当に異常な人数に膨れ上がるのは間違いない。
そういう作品に成長したエヴァが、計画立案時点でそもそもの制作方式として監督の自我を描き続けることをOKしたことと、庵野監督がいろいろあって選択したり失敗したり自己批判したり病んだりなんもしたくなくなったりしてもなおエヴァンゲリオンとかいうクソデカくてキモいロボに搭乗し続けたことで、遂にこの作品は成った。と思う。(シンを観る前にテレビ版をちょっと見返したのですが、エヴァってもう2話目くらいの段階でかなり生物的でキモくて乗りたくなさすぎるよね)

では感想に移ります。


先行公開されていた冒頭映像は、今回はウソにならなかった。
ちゃんとパリのNERV支部奪還作戦(前作で2号機と8号機が大破しちゃったので、自前でなんとかできないヴィレがNERVの支部から予備パーツをぶんどるための戦い)が描かれていた。

ここでの戦闘シーン自体についてはまあなんでもいいというか、糸でエヴァ8号機を吊って飛ぶとか戦艦型の盾とか、エッフェル塔を持ち上げて攻撃するとかのオモシロぶっ飛び戦闘があって良いねってくらいだ。

後々にヴィレの面々がヴンダーから脱出するときに、脱出ポッドがわざわざ船体をブチ抜いて飛び立っていく様子が描かれていたが、ああいうなんか笑っちゃうくらいのケレン味みたいな部分は、今作は破ぐらいの頃まで戻ったような感じがする。
なぜ?とか考えてもしゃあない部分の話で、かっこいいしアガるからそうしている!っていう描写だ。
(今作は現実を創作物に落とし込もうとしている反面、その創作物・虚構でしかし得ない表現もたくさん登場する。ある意味アニメーションという表現の局地がここにあったなと思う。)

封印柱(実は破・Qでも出ている)の用途が判明し、マリがどこにいてもシンジを迎えに行くと宣言してタイトルへ。
この「迎えに行く」という言葉が今作では何回も何回も繰り返し出てくる。

シーンが移ると時系列的にもQのすぐあとに接続され、シンジ、アスカ、綾波みたいな奴が真っ赤な大地を歩き続ける様子が描かれる。
所謂、「遅れていった飲み会で、なんとか場に馴染もうとしてカヲル君と裸芸を披露する選択をしたら全員にドン引かれて(カヲルはその場で爆死した)、孤立してしくしく泣いていたシンちゃんをアスカが迎えに来てくれたところ」からスタートだ。

あてどなく歩いていたのかと思いきや、アスカはなにかモニターを見ながら進んでいる。
どこに向かってんのかと思ったら、トウジやケンスケが生活している集落で、面々はひと時ここで衣食住の世話を受けるのだった。

で、ここでいきなり視聴者はこの世界観の認識を裏切られることになる。

集落あんのかよ!人間生きてんのかよ!という点だ。


Qでは恐らくヴィレとNERV以外の人類はほぼ死滅したっぽい風に描写されていた。
だからトウジの妹である鈴原サクラが登場したときも、たぶんトウジはニアサードインパクトで死んだんだろうな、だからシンジを憎んでいるんだ……と観ている側に思わせるような描かれ方をしていた。

が、人類は生きていた!

ちょっと別作品の話に寄り道するが、シン・ゴジラは明らかに3.11の震災を意識した作品になっていた。
水爆実験で目覚めた初代ゴジラよりも、より時代的に近い3.11と、福島原発事故。急に災害が襲い掛かってきたとき、人間はどう立ち向かうのか、国は、民衆は……という話が主軸であるはずだ。
だから「現実 対 虚構」というキャッチフレーズがついていた。

ゴジラという存在自体は虚構であるはずなのに、災害(ゴジラ)は真昼間に急に襲い掛かってくるし、僕たちが知っている町を瞬く間に蹂躙するという現実がそこにある。
その巨大な、絶望的な現実を乗り越えるためのささやかな希望を虚構(無人在来線爆弾と凍結ジュース)として描き、最後はそれらが共生する形で物語が終わる。(ばら撒かれた放射能との共生というか、それらがすぐ周りにあるということの静かな絶望と恐怖を描いた、と当時は思っていたがたぶん違うんだなこれは)

これを踏まえると、3.11の震災が庵野氏に与えた衝撃と絶望、そしてそれらを作品に落とし込むということ、生き残った創作者がすべきこととはなんなのか?というのの葛藤と決着がシン・エヴァンゲリオンで成されたことがなんとなくわかる。
いや、これは妄想ですが……。

つまりその、Qの時点(3.11から1年半以上経過時点)では、「もうダメだ、人間も社会もみんな津波に飲まれて更地になってしまった……人は急に死んでしまうし一つの災害で社会も全部なくなってしまうんだ……ここにはもう誰もいないよ、もう何もしたくないよ……」みたいな感じだったんだろうなと思う。
でもエヴァは作らなきゃいけないので(仕事だから……)ああいうのが出力されてきたんだろうなあって。

Q観てわけわかんねえよ!と思う視聴者(あたしも)はたぶん完全に正しくて、あれは今思うとわけわけんねえよ!なんなんだよ!という混迷の感情だけ受け取れればいい映画だったんだと思う。

本来震災とかテロとかのでかい事件があったときに、それらを作品として描くのって物凄く時間のかかることで、出来事を自分の中で整理したうえで虚構に落とし込なまきゃいけないし、実際に被害に遭われた方もいることも踏まえて作らなきゃならん。
でもQは1年とかそこらで出力されちゃった。あの時期にエヴァを作らなきゃいけなかったから、混乱がそのまま作品として出てきたんだろうなとも思う。時間の経過も方法論としての確立もないまま、感情だけでその場に出て来ちゃったんだろうなと。

それを考えるといったん用意していた序→破までのノリとシナリオを一回放棄したのも頷けることで、熱血ロボバトルみたいなノリになってきてしまった破に対して、果たしてこのまま綾波を助け出しちゃっていいものか?という疑問とか、俺はこのまま少年漫画のお人形遊びだけを続けてもいいのか?あんなひどいことが現実にあったのに?みたいな葛藤があったんだろうなあと想像する。
あくまで想像です。(でもあのノリのエヴァもそのまま観てみたかったよねと思う。俺はダイジェストで破の映像が流れた時すでに泣いていました)

シン・ゴジラの方に翻ってみると、やはりQから少し時間が経って、ある程度震災をどう受け止めるべきか、そのくそでかい現実に対して虚構の制作者は何を出すべきなのか?という段階に移行しているように見える。
ただ、あの作品に出ている人間はほとんどシナリオのシステム通りに動く駒でしかなくて、戦略シュミレーションとしてはかなり完成されてるけど人間が登場してくる作品ではないなというのが俺個人の感想だった。

わりと映画的なケレン味というか、かっこいい無駄に寄っていたというのもあるし(別にそれはいいんだけど)、何よりあの作品は人間の生活がほぼ全く描かれていなかった。
言うても他人の作品に乗っかる形でやってるものに対して自我を出しまくるのもね……というのもあったのかもしれないが、そのせいでマリオネットみてえになってる主要キャラクターの動きにだけ焦点が当てられてて、破壊される人々の生活とか社会とかは震災を感じさせるカットはあれど破壊される前の生活がない。

その方式だと、ニアサードインパクトで何もかも吹っ飛んでしまって、主要人物=分裂した自我だけが存在するQ世界と、描き方としては大して変わりないのだと思う。

そこでシンの第3村の登場である。そこには明らかな他者がいる。人々の生活がある。

ヴィレが管理している第3村(冒頭でパリを浄化から解放した封印柱の結界で、大地や木々も本来あるべき色を取り戻している)ではずいぶんと年を食ったトウジ、トウジと結婚した委員長、何でも屋としてヴィレとの連絡係もしているケンスケが生活していた。

ここの第3村のパートが俺はとにかく好きで、観ながらめちゃくちゃ泣き続けていた。

災害も含めあらゆる喪失からの復興を丁寧に描くことが一つ、もう一つはトウジや委員長が14年間でこの社会において半ば強制的に成長したのに対して心を閉ざしたままのシンジが全く変わっていない様子を両面で表現している。

作中的には身体が成長しない「エヴァの呪縛」というルール。

14年寝てたシンちゃんとは違ってアスカはちゃんと28年間を生きてきたので、心のありように差が生まれている。

後述するけど綾波とかアスカとかが成長できないルールとシンジ君の見た目が変わらないのは明確に違う理由がある。
前者は「アニメのキャラで看板娘だから」、後者は「エヴァを作ってきた庵野監督であり、そしてずっとエヴァを追い続けてきた俺達だから」というアレだと思う。

14年経ってんねんで!そら人の親にもなるわという話なんだ。取り残されてるのは俺とお前だけだぜ。

ニアサードインパクトという大災害から14年が経過していて、もう「ニアサー」なんて略して呼ばれていたりする。(こういうのニクいと思う)

この間、トウジ達は虚構に逃げてる暇もなく強制的に成長せざるを得なかった。
社会の中でがむしゃらに次を生きるその過程で、委員長と結婚して子供もできて守るものができた人間の姿がそこにある。

ケンスケが言うニアサーも悪いことばっかりじゃないよ、というのは、巨大で最悪な現実が襲い掛かってきても、明日を生きることを繰り返しているうち長い時間が経ってて、ふと気が付いて振り返るとその最悪な体験も自分を形作っている一部になっているんだよ、ということとして俺は受け取った。

これは震災のことだけを言っているわけじゃなくて、現実ってそういうもんだよねというメッセージだ。そういえば委員長も現実は良いことと悪いことが順繰りにきて、それが当たり前だみたいな趣旨のことを言っていたな。


この村でのアヤナミレイの描写は本当に愛おしくて悲しい。NERVの中でしか生きられない彼女は、村の中のほとんどのことを知らない。物の名前を知らないし、感情もわからない。

村人と田植えとか一緒に風呂入ったりとか、相互のコミュニケーションをしていく中で、様々な感情とかかけがえのないものを学び取っていくアヤナミ。
そのコミュニケーションの第一歩、一番最初に話す言葉が挨拶。仲良くなるためのおまじない。

もう明確にコレなんだよ。

震災後に狂ったように流れ続けていたCM。コミュニケーションによる相互の作用、その第一歩が挨拶だよ。挨拶をしろ!みんな!

震災直後に流れていたCMを想起させる描写がされていることを踏まえると、今作の仮称アヤナミレイは生まれてくるはずだった命、水子の供養として描かれてるのかなと思う。

何も知らないし感情もまだうまく出せない、名前のない存在。(今までの綾波は、盾で守ってくれたり、シンジ君がエヴァに乗らなくてもいいようにする!と言って代わりに戦ってくれたり、碇ユイのクローンだったりして、どちらかというと母親もしくは母親には最終なれない存在として描かれていたが、今作のアヤナミレイとシンジの立ち位置は親子の関係が逆転しているように見える)

ここ(現世)では生きられない運命だったけど、成長して挨拶をしてコミュニケーションを重ねていくと、ヤなこともあるかもしれないけどこんなにきらきらしたことが待ってる、はずだった命。

彼女の碇シンジへの好意はアニメ脚本的に、または雛が親についていくようにプログラムされたものなのかもしれないけど、それでもいい、名前を考えてくれたことが嬉しいと言って消えていくシーンは本当に辛い。

実際は亡くなった子供が話しかけてきてくれることはないのだから、これも虚構なんだが、虚構によって現実を変えることの第一歩を踏み出すというテーマにおいてすごく重要な場面だと思う。

碇シンジは前作でカヲルを、今作でアヤナミレイを失うという現実・喪失を、虚構によって得る。今作において喪失は乗り越える必要があり、現実と虚構は共に逃げる対象ではない。


(続きはまたすぐ書きます)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?