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新たなデジタルの世界

 世の中のDX化が進み、デジタルの世界がすでに我々の身近なものとなった。今となっては学校教育に欠かせないツールとなっており、政府から出される教育方針もデジタルありきとなっている。日本のそのような流れに反するようにデジタルを生み出した国アメリカでは「デジタル・デトックス」が流行りつつあるようだ。

 お金を払って高価な端末を購入しているのに、それから自由になるには再び高額なお金を払わなければならないというのはなんとも皮肉なものだ。まさに薬物依存症からの更生プログラムに近い感覚。

 一時期に比べるとだいぶマシになったような気がするが自分自身もデジタルと共に過ごすジャンクな時間を楽しんでいた1人だ。

 この本を読んでからいかに自分が無駄な時間を過ごしていたか悟り、そこから抜け出すよう努力するようになった。自分がデジタルの中で過ごす時間が長いと感じている人はぜひ手に取って欲しい本の一つだ。

 しかし一方でデジタルの世界の中でしか自分自身の人生を楽しめなくなってしまった人もいる。

 ALSという体が動かなくなる病気だ。ここで紹介されている人は自分のアバターを作り、ほぼ全ての人生をデジタル空間に移行した。その結果、体の自由はなくなっているものの本人曰く、人生のキャリアの中で一番忙しく過ごしているとのことだ。

 当然ながらデジタルも実社会も一長一短がある。それぞれの全てを否定することはできない。しかしながら、デジタル過渡期に生きている自分の経験としては、結局実社会で行われていることがそのままデジタル化されているという印象がある。例えば、SNSは実社会の友人通しの会話の延長線上であったり、オンライン授業にしても実授業をデジタル化したものだ。つまり、実社会で生きる能力を磨くことでデジタルの利点を引き出すことができると思う。

 最近は幼少期からプログラミングを始めとしたデジタル力を鍛えようとする傾向が見られる。筆者は基本的にこの立場には反対である。それよりも野山を駆け巡り、自然と戯れ、泥だらけで友達と遊び、、、このようにして身につけた実社会能力があるからこそ、未来のデジタル活用の選択肢が増える。

 仮想空間は実社会がうまく行かない時の逃げ場ではない。実社会では叶えられないことを叶えることができる拡張の場だ。巷には多くのデジタル塾が見られるが、読者の中で自分の子どもをそのような塾に入れようと考える人たちには「何のためにその塾に行かせるのか?」を考えて欲しいと思う。批判的能力、論理的思考力を育むためと塾から説明されているかもしれないが、それらの力はプログラミングなど人がセットアップして順序立てて習わせるものではない。人と人との触れ合いで話し、考え、傷つきながら習得していくものである。その経験があるからこそ、対人関係能力が育ち、さらに多様な経験と知識から批判的、多角的に物事が見えるようになるのだ。子どもは傷つきから守ってやるのではなく、傷ついた時にどのようにフォローして成長に繋げるのかが重要だ。

 デジタルの力を身につけるために、ノンデジタルな力を育もう。それが我々大人ができることである。

世界を旅するTraveler。でも、一番好きなのは日本、でも住みたいのはアメリカ・ユタ州。世界は広い、というよりも丸いを伝えたいと思っている。スナップシューターで物書き、そうありたい。趣味は早起き、仕事、読書。現在、学校教員・(NGO)DREAM STEPs顧問の2足の草鞋。