発達障害への理解

 最近はだいぶ世間的な理解が浸透してきたが発達障害という言葉がある。大きく分けて学習に困難をきたす学習障害、人間関係や行動に困難をきたす広範性障害。そのどちらも学校生活では重荷になってしまう。なぜなら日本の学校はだいぶ変わってきたが基本的には一斉学習型で行事の多くは協調性を養うようデザインされているからだ。

 発達障害は個性だという意見をよく聞くがまさにその通りで、一般人には想像もできないぐらいのすごい力を発揮する人もいる。それをよく描写したのがレインマンという映画だ。

 もちろん全員がこのようなスキルを持つわけではないが。彼らの存在が教育現場で知られるようになってから、「個性とは何か?」という人間の根本とも言うべき課題が議論されるようになった。その甲斐あってか、世によく知られるN高等学校などその時の自分が最も力を入れたいこと、最も自分を表現できることを教育することを目標に掲げるような従来とは異なる教育を目指す学校の人気が高まっている。このN高校も2020年現在1万5000人の生徒が在校しているとのことだ。少子化が問題となるこの日本においてこれだけの数の生徒を確保できるということに、社会からのメッセージを受け取らざるを得ない。

 こうなってくると全日制普通科の存在意義が怪しくなってくる。もちろん従来型の教育に満足している人も一定数はいるし、どちらが良いということも無いので共存共栄は可能であると思うが。

 しかし、個性というものに対して学校なりの考え方を明確に打ち出さなければならなくなっているのも事実であろう。どの親も自分の子どもを「その他多数」として扱ってほしくないはずなので。自分の子どもをしっかりと見てほしい。自分の子どもが一人の人間として成長してほしいと言うのは常に親の願いだ。

 YouTubeを観ても個性的な人がその力を発揮して、お金を稼いでいる姿は魅力的だ。だからこそ、子どもたちの就きたい職業NO.1はYouTuberなのかもしれない。

 今の学校に求められているニーズはここまで違うのだから、単に他とは異なる人間を「発達障害」で締め括ってはいけない。そういう子たちが持つ個性や能力すらも活用し、世界に対して無いものを創造できる力を育成することが重要だ。なぜなら、今後の世界の働き方の主流はジョブ型と言われるように、個の持つ力を合わせ、無いものを作り、世界をマーケットに売り込むことにあるからだ。「あいつは違う。」と言う言葉で個性を排除してしまっては、その個性をうまく使えるチームでその人は自分の力を発揮し、その結果、「過度な協調性」ばかり追い求めるチームは何の得もしないし生み出せない。そう!変わらなければならないのは発達障害と診断された子どもたちではなく、「伝統」「文化」で負の遺産として引き継いでしまっている我々学校側なのだ。





世界を旅するTraveler。でも、一番好きなのは日本、でも住みたいのはアメリカ・ユタ州。世界は広い、というよりも丸いを伝えたいと思っている。スナップシューターで物書き、そうありたい。趣味は早起き、仕事、読書。現在、学校教員・(NGO)DREAM STEPs顧問の2足の草鞋。