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デジタル格差と貧困格差

 デジタルデバイスを活用した教育の必要性はすでに多くのところで語られている。しかし、それによって引き起こされる貧困格差というのはあまり明るみに出ない。単純に考えて、GIGAスクール構想のように一人一台の端末普及を目指したとしても、家に通信環境が無ければ学力の格差は埋めることができないどころか、さらに開くことだろう。

 昨年のように全ての学校がオンライン教育に切り替わった時、それに対応できる家計とその日生きることで必死な家計の差は歴然のものとなった。今後、デジタルが第三のインフラとして発展していくためには、全ての人に通信環境が行き渡らなくてはならない。コンピューターでもタブレットでも通信環境がなければただの鉄の塊だ。

 このコロナによって教育格差、そこから引き起こされる貧困格差の広がりは懸念せざるを得ない。なぜなら、教育レベルと経済レベルは相関関係にあるからだ。中には自力で貧困層から抜け出すぐらいのとびっきり優秀な人材も現れるが、ほとんどは自分が生まれ育った経済環境で生きていくことになる。

 先進国でもこのような問題が起こっている中、開発途上国をはじめとした教育途上国ではより顕著であろう。しかし、それも致し方ない部分はある。どうしても、物が最初に行き渡るのは経済的に恵まれた階層だ。むしろ、その階層の人間達を情操教育により貧困層にも目を向けられるように育てていくことが大事だと思う。持つものは持たないものに対して支援の手を差し伸べる。そうした循環を生むことの方が「全員平等」を訴えた結果、何も進まないという現状改善につながるのではないだろうか?

 平等の精神は大切で崇高なものであるが、本当に平等な社会を求めるのであれば、一時の不平等を引き起こさなければならないこともあるだろう。GIGAスクール構想に関しては、数字と実態がかけ離れているという話を聞く。数字上は全ての学校にコンピューターが配布されているのだが、実際には届いていないということだ。これも平等を追い求めすぎた結果、何も進まなかった例と言えるだろう。平等を数字で証明しようとした結果、現場の現実と乖離してしまったということだ。

 世の中右肩上がりに何かしら改善することは無い。上がり下がりを繰り返しながら徐々に良くなっていくというのが常だ。平等を目指す前のひと時の不平等を受け入れる度量も必要では無いだろうか。

世界を旅するTraveler。でも、一番好きなのは日本、でも住みたいのはアメリカ・ユタ州。世界は広い、というよりも丸いを伝えたいと思っている。スナップシューターで物書き、そうありたい。趣味は早起き、仕事、読書。現在、学校教員・(NGO)DREAM STEPs顧問の2足の草鞋。