ヤンキー漫画の神話

 もうヤンキーってあんまりいない気がするけど、なんでヤンキー漫画ってずっと人気なんだろうと考える。誰もがそれを選べはしないからだ。大体は。やだろ、まあまあ勉強できるのに無目的に無免許でバイク乗って警察のお世話になるの。最近は知略キャラもいるけど。

 ヤンキーは「悪い」――そのはずなのだ。概ね法律を破り、弱者を食い物にする。彼ら彼女らはその年代のヒエラルキーにおける、フィジカルもメンタルも強い層なのだから。短期的に考えれば、そうできるしそうしていい。だが今は創作上のキャラクターにそのままそれを乗せようとするとさすがにまあ具合が悪い。

 コンプラポリコレ全盛の時代に、元暴走族でした、昔はヤンチャしてました、そう、俺たちヤンキーだったぜ! それだけの要素で食えていける表現者は少なくなってきている。だってヤンキーは「悪い」のだから。その過去からファッション要素であったり、精神性の繋がりであったり、そこだけを見れば良さそうなものだけを抜き出してやっていくしかない。

 でもヤンキー漫画のヤンキーは滅びない。何故ならかっこいいからだ。上の年代に押し付けられた行動様式を破壊し、弱者を搾取しているように見えるけれど、性根で言えば体制側の権化である教師にもどこか最後の部分では愛されてしまうような強烈な善性を持っているからだ。
 根性と熱意と人脈があればどうにかやっていける飲食系自営業、本来持っていたセンスを活かしたアーティスト、趣味がそのまま仕事になった車両整備業、善性の発露としてのローカル公務員。概ねヤンキー漫画のヤンキーは路頭に迷わない。そりゃスーパー高学歴マンには収入は負けるし、あまりに善性が弱くて悪いことをすると勧善懲悪エンドが待っているが、まあまあそれなりの幸福なルートに入っていくのだ。

 現実はどうかと言われるとそりゃ全然違う。善性がなければ悪い意味でヤンキーを卒業するしかなくなる。方向のない暴力性だけで食える仕事はまだ全然あるので、その枠内に吸収されていくだけだ。良くはない。漫画のようにはならない。なのにヤンキー漫画は滅びないのだ。

 漫画のヤンキーは、体制と戦える強さがある上に、弱者と同じ目線にも立てる。そして最後は番いを見つけて、生まれた場所の強固な共同体に受け入れられる。そう運命づけられた存在を愛せないわけがない。かっこよくて強くて弱い。後半のアイアンマンやん。すこ。

 ヤンキー漫画を読むのがヤンキーだけでなくなって何年経つだろう? 表現技法は日々進化し続けているのに、根本的な内容が変わらないのはどうしてなのだろう? 本当は誰もが分かっているのかもしれない。「ヤンキー」というロールが実は案外コスパのいいライフスタイルであることを。最低限の善性を持っていれば、若い内にやりたいようにやって、体制に唾を吐き、そして最後はその体制に回収されていく生き方を。最初から最後まで、トータルでは何も変えていないのに、その過程に燃やした熱量を誇りながら、無限に縮小再生産を続けられることを。

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