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『14歳』って曲なんだけど…

『14歳』って曲聞いたんだけど….

仄暗い世界観がたまらなく心地よい。出だしが最高だ。『常磐線下りのホーム 電線にとまるカラスの憂鬱 それを見ている彼女が抱える 笑い飛ばせない日々の憂鬱』言葉だけで再現するカメラワーク。常磐線から彼女へとフォーカスしていくフレーム。構成がもう殿堂入りだ。笑い飛ばせない日々の憂鬱って表現いいよなあ。『夢を見て上京した 少年の長い髪が 都市のビル風に揺れている それを彼女は見てる見てる カラスの目玉で見てる 見てる』もう一節も飛ばせない。彼女がカラスの目玉で見てるとはどういうことだろうか。目玉を通してみているのか。カラス視点で見ているのだろうか。見ているというところで描写が止まるのも巧みだ。その先はない。『あれはアレイの白色矮星 それで僕は燃やされてしまいたい。』たまに秋田氏の辞書から思っても見ない単語が飛び出す。なぜ数ある可燃ワードから白色矮星をチョイスしたのだろうか。終末期という表現だろうか。私の小さな脳みそでは到底理解しがたい。
ここから、秋田氏の手法その237「短編ストーリー」が炸裂する。『オレンジ色のマンションの ベランダで親子が笑ってる きっと明日もいいことが 起こると信じて疑わない そんな響きの声だから 僕らの胸は張り裂けた』秋田氏は情景演出が上手い。2次元の言葉で3次元を作り出す。胸が苦しくなるような風景。もし自分の心苦しさを表現するなら辛いことや、悲しいことでプロットを組み立てるが、秋田氏はあえてベランダで笑う親子をチョイスした。何気ない風景に心が揺れるさまをたった4小節で表す。言わずもがな日常を切り取る天才だ。
『楽しくないけど笑ってみた それでも僕等空っぽだから』つくづく私は母国語が日本語であることに感謝したい。秋田氏の言葉を聞き取るのに苦労しないからだ。アメリカやオーストラリアに行って感じたが、やはり日本人は繊細だ。時に腹が立つほどセンシティブだ。しかしこの繊細さが故に人間の脆弱性にダイレクトに潜り込める。人によってはわざわざ踏み込む必要はないと感じるだろうが、たまにあえてその機微に触れたい。amazarashiを聞くときは決まって立ち入り禁止区域に片足を踏み込んだような気分になるのだ。
『なによりも普通を望んでいた 少年期の自意識の屋根裏 「人に嫌われたくなかった」 そんな名前のポスターで部屋は真っ暗』生ある限り人として感じるすべてが上記のたった4小節にに詰まっている。人に嫌われたくなかったポスターは確か私も部屋のどこかに飾っているはずだ。『青春の残り火みたいな 夜露をすすって今日も生きる』ここでふと感じた。この曲のタイトルは『14歳』だが、ターゲットは14歳ではない。むしろ青春の残り火にすがる大人たちだ。皆光る10代の夢をずっと見ていたい。労働や社会に縛られることのなかった10代の夢。3年間で大きくライフステージが変わるわくわく感。社会に出てからというもの年単位で見ても変化が起こりにくくなった。労働も3年間で卒業とかそんな区切りがあればもっと頑張れるのに。途方もない終わりに明日を変えることも億劫になっていく。生き方が後ろ向きになっていく自分も腹立たしい。そんな様々な感情をたった2行程度に要約するのが上手い

最後のサビは一度聴いたら忘れられない『生きたくないけど生き残った 彼女は今日も空っぽだから』生き残ったという表現。生きるという動詞を少し変形するだけで音楽との相性がバチコリだ。『夢とかないけど歌ってみた 結局全部ゴミくずだから』ゴミくずだとわかっているのになぜ秋田氏は歌うのか。それは空っぽなのに生きていく我々と同じだ。『今すぐ何かを残さなくちゃ それなら僕は歌を歌うよ』そう。我々は衝動で生きる。いや、衝動で生きていかないと確実に葬られる。社会的ゾンビとなって生きるのは私も嫌だ。秋田氏は社会的ゾンビになりかけた自分を戒めるため、とにかくなりふり構わずやれることは歌うことだと。がむしゃらに歌ってきた。どんなに深くまで考えたところで、浅瀬で無我夢中にもがくことで自我を保つ人間もいる。そんな切なさと無力さ、それでも生きていく力強さを示していくのが、この曲の在り方なのだろ。14歳というタイトルは秋田氏が最も多感だった時期の事なのだろうか。

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