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『命にふさわしい』って曲なんだけど…

『命にふさわしい』って曲なんだけど…


もうタイトルコールだけで心を打たれる。楽しみにしていた映画の予告が解禁されただけで涙が出そうになるあれと同じだ。
『好きな人ができた 確かに触れ合った アスファルトより土 鋼鉄より人肌』
好きな人と触れ合ったときの稲妻が走るような衝撃。それは半無意識的にアスファルトより土を好むのと根本的には同義なのかもしれない。
『無意識に選ぶのが冷たさより温みなら その汚れた顔こそ 命にふさわしい』
なるほど。我々は明らかに冷たさより温みを選ぶ。便座や弁当も然りだ。しかし「~なら」と接続で結ぶのは秋田氏ならではの芸当だ。ところで、「命にふさわしい」という表現がいささか不思議でたまらない。「命にふさわしい」ものとは何なのか。それを突き詰めていくのがこの曲のコンセプトの一つなのかもしれない。ハッ、まてよ。今更ながら思ったが、秋田氏の曲にはそれぞれ「問い」が隠されており、すべては秋田氏も回答に困る「問い」を解明するために練り上げられているのではなかろうか。ギィ(真理の扉を開ける音)。
いやー、真理の扉を開いちゃったかも…

『前に進むために 理由が必要なら 怒りであれ何であれ 命にふさわしい』
我々の行動は全て命を基に派生していると仮定する場合、命こそが最上級の位置にあるのであって、そこにふさわしい行動が後から伴ってくると考えるのが妥当だ。その場合、怒り等の感情も命に基づき、命にふさわしいと言えるのではなかろうか。
『全部を無駄にした日から 僕は虎視眈々と描いてた 全部が報われる朝を』
私も何度も願ったことがある。誰かがこの日々を報いてくれると、自分でない誰かに託した。この苦しみが明日の朝には変わってるんじゃないか。そう願ってから約何年経ったろう。一向に報われる朝が来る気配はないが、確かに皆そういった朝を一度は虎視眈々と描いたことがあるのではなかろうか。

『世界を滅ぼすのに値するその温もりは 二人になれなかった孤独では 道すがら何があった? 傷ついて笑うその癖は そんなに悲しむことなんて 無かったのにな』
二人になれなかった孤独の温もりが世界を滅ぼすという。まさに一縷の温もりが世界を救う、もしくは滅ぼすかの表裏一体。そして思っているよりも簡単に世界は壊れるということを暗示している。「傷ついて笑うその癖」。なんて優しい癖の持ち主なのだ。そんな自分を愛してほしいし、きみが思っているよりも君はずっとまともな人間だ。そんなに悲しむことなんてなかったのかもしれない。
『心さえ 心さえ 心さえなかったなら』
ここで震える。私も心なんていらねえ!もうやめてくれ!と思うことは何度もあるが、このフレーズを聞いた時だけは震える心を持っていてよかったなと思う。確かに心さえなければ悲しむことも苦しむこともない。心をなくしたことがない我々にとって、心がないというのは非常に魅力的に映る。感じることの全ては心が原点となり、原点をつぶしてしまえば、こんなに人生に難色を示すこともなかったのかなあ

『友達ができた 理想分かち合った』
1番で好きな人ができたのに対し、2番では友達ができる。人生におけるまたとないビッグイベントの2代巨塔だろう。そして対人関係が命の価値を上げてくれる一つの欠かせない要素であること。少なくとも秋田氏がそう捉えていることは確実だ。『裏切られたっていいと 道端ひれ伏すような 酩酊の夜明けこそ 命にふさわしい』いかにも情動的な命の量り方だ。裏切る裏切らないという話ではない。裏切られたっていいや!と思うことそれ自体。夜明けに酒気を帯びながら道端ひれ伏すその心こそが命にふさわしいと秋田氏は言う。『なくした何かの埋め合わせを探してばかりいるけど そうじゃなく喪失を正解と言えるような』ここで示唆しているのは、物事の捉え方の問題だろう。そもそも生きていく上で何もなくさずに進める人などいない。であるならばその喪失とどう向き合うかを考えたほうがよっぽど合理的なのではなかろうか。しかしこれを秋田氏は『逆転劇』と称する。それだけ難しい事なのだ。『そしてそれは不可能じゃない 途絶えた足跡も旅路と呼べ』確かに私は今まで進んでもなお振り返ると捉えきれる範囲のみしか意識していなかった。しかし秋田氏は「途絶えた足跡」も旅路と呼べという。これは目から鱗だ。「途絶えた足跡」も旅路であることは事実だ。途絶えたから勝手に断捨離をこなし、なかったものにしようとした自分の怠慢。あるものを無かったことにしなくても良い。途絶えた足跡も確実に自分となっていると教えてくれた。

『世界を欺くに値する 僕のこれまでは 一人になれなかった 寂しがりや共が集って』
世界を欺くに値するこれまでとは、計り知れない。一人になれなかったという表現も面白い。我々は一人になろうとしたけど、なれなかった一人だ。
『道すがら何があった?傷つけて当然な顔して そんなに悲しむことなんて 無かったのにな』
傷つけても何食わぬ顔で生きている人。そんな人にも私と同等の時間が流れており、それなりの道を歩いてきたはずだ。そんな嫌な奴の人生にも聞く耳を持つ。傷つけること、さみしくなること、これも心から派生している現象なのか。はたまた命にふさわしいと言えるのか。考えれば考えるほど沼りそうだ。

『愛した物を守りたい故に 壊してしまった数々 あっけなく打ち砕かれた 願いの数々
その破片を裸足で渡るような 次の一歩で滑落してそこで死んでもいいと 思える一歩こそ
ただ、ただ、それこそが 命にふさわしい』
ここ一番好き。そして秋田氏は命のふさわしさの片鱗にたどり着く。「次の一歩で滑落してそこで死んでもいい」と思える一歩こそ命にふさわしいと言う。しかもただただそれこそが、だ。秋田氏は「いつ死んでもいいんだから、行けるとこまで行ってみよう」という精神で音楽をやっているといっていた。常に滑落寸前の一歩を歩んでいるお方だ。かれが命にふさわしいものを分析した場合。なによりこの満身創痍な一歩が命にふさわしいと捉えたのだろう。

『心を失くすのに値した その喪失は 喜びと悲しみは 引き換えじゃなかったはずだ』
心を無くすのに値した喪失は計り知れない。喜びと悲しみが引き換えじゃないことも確かだ。心を引き裂かれるような悲しみは悲しみを超えて一層痛いし、ずっと心に残り続ける。一方で心が砕ける様な(いい意味で)喜びとはそうそう出会うことがない。そういう意味でも喜びと悲しみは引き換えではないのかしら。
『道すがら何があった? その答えこそ今の僕で 希望なんていとも容易く投げ捨てる事はできる』
つまり辿ってきた過去こそが今の僕だと。その道半ば、とんでもない絶望を経験したり、希望が経たれるような経験をしてきた場合、それも今の僕であり、そのことを思えば希望なんていとも容易く投げ捨てることが出来る。「希望を投げ捨てる」とは一見非常に悲しい事のように思えるが、時に人は戦略的に希望を投げ捨てることが出来る。変に自分の足かせとなる希望などよっぽど投げ捨てたほうがマシな時がある。
『心さえなかったなら 光と陰』ここの文脈をくみ取りたい。心さえなければそもそも投げ捨てる希望もくそもない。それは素晴らしいことだ。勝手に生み出される期待や失望も感じずに生きられる。しかし果たしてそこに人間性があるだろうか。仮に心がある人間が「光」で、心がない人間が「影」だとしたらどうだろう。心がない人間は現代で言うAIといえるだろう。そもそも心とはどこにあって….いやこれ以上は長くなるからやめておこう。多分秋田氏もそういうことが言いたいわけじゃない。もっとシンプルな事なんだ。私たちはもっとシンプルなことに足を取られる。命にふさわしいものとは、我々が考えるより最も身近にあり、普段は当たり前の事として素通りするが、改めて問われると答えに迷ってしまう。命に値するものとは何だろう。その命題を考え、何とか言葉にしてみたらこの曲が完成したのではなかろうか。

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