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『もう一度』って曲なんだけどさ.......


『もう一度』って曲なんだけどさぁ…...............................................................

一言で言ったらスルメだよね!

噛めば噛むほど、、いや、聞けば聞くほど味が出てくる。未来永劫ヘビロテ涅槃寂静(哲学)。この曲はamazarashiの中でも珍しくメロディアスな人気の高い1曲だろう。
この曲に出会ったのは確か大学に入学して間もない頃、上京したてで東京の地形がわからず、気づけば歌舞伎町のど真ん中でバイトを始めたころだった(飲食店だが)。昼は講義、夜は歌舞伎町と全く別の世界を生きていた自分が好きだった。4限まで講義を受けたらそのまま歩いて歌舞伎町までいき出勤する。初めてのバイトだったので忙しさや客の民度の基準がわからず、結局4年間みっちり働いたのだが、なんとも恐ろしいバイト先だった。お得意のヤクザの電話番号は暗記すること。昼はべろべろのホストの相手をすること。何より前科やドラッグにまみれた社員さんたちが一番クレイジーだった(いい人たちばかりだったが)。とにかくまだ仕事を覚えてないうちはバイトに行くのが恐怖だった。嫌ならやめちまえと思うが、どこかで「東京でサバイブするにはここを乗り切るしかない」というSASUKE精神(私はそう呼んでる)が疼き、仕送りもないような苦学生だったのでとにかく続けた。と話が宇宙まで逸れたが、なぜ急に自分語りを始めたのかというと、この曲がそのバイト前やバイト後に最も効果を発揮したからだ。

テンポの良い四つ打ちからいきなり「バイトの面接バックレて」と始まる。登場人物の生活感や丁度いいダメ人間感がまた私を安心させる。下を見ると安心する邪心のようなものだろうか。バイトなんてもう無理!と思ったらバックレてやろうと私も思えることで保険を掛ける。「彼女が帰ってくる前に 言い訳を急いで思案する」から「大事なところで僕は 何度も逃げ出したんだ」は一つの物語そして秋田氏の得意な具体→抽象だ。ここが秋田氏と他の作詞家を分ける一つのポイントだと睨んでいる。秋田氏は難解な表現や学術的語彙を多く使うが、意図や意味をくみ取れなかったことはない。それは視聴者のために具体化するというより、秋田氏自身、抽象表現で終わらすのが気持ち悪いと思っているからではないだろうか。人が言葉にできない事象を、言葉で表す努力を意識しているからこそ、どこか先進的でアンティークな歌詞が爆誕するのではないか私は一人勘繰っている。

さらにサビの『僕等を脅かした昨日に』という表現が好きだ(直喩)。秋田氏は未来や明日ではなく昨日という表現を使った。つまり1度負けているんだよね。だからこそもう1度なんだけど。これは我々に「負けることは全く恥じることではないぞ」と檄を飛ばしている。1夜空けても悔しい出来事ってのは大いにある。見つめる鍋は煮えないというが、寝かしても私たちを脅かす事実が存在する。リアルタイムでベストを尽くせず悔しい思いをするなら次を虎視眈々と狙う。それでいいんだよと秋田氏は手を差し伸べる。

2番の「昔はよかったななんて そりゃ白旗を振るってこと」は私にクリティカルヒットだ。いわゆる懐古厨である私はつらいことがあったり自分に自信がなくなるとすぐ昔の輝いていた自分を思い出す。それは現実に白旗を振り背を向け、そそくさと昔の自分に逃げ帰ることに他ならない。「敗北挫折絶望がラスボスじゃねえ」。つまるところラスボスって表現が最高だ。乗り越えろよって励ましにも聞こえるが一方で「ラスボスはもっと厳しいぞ」という警告にもとれる。このリスナーに考えさせる話芸が秋田さんをより高尚な位置へ引き上げる。無論私の世界で。

サビでは「ようやくたどり着いたこの場所に正しさなんていらないよ」。もうありがとうがとまらない。私に必要なのは正しさではない。一方で社会や世間体は正しさを評価する。そのジレンマの中、何とか自分が必死にやってきたことに正しさは要らない。よくやってる。と評価してくれるのは後にも先にもamazarashiしかいない。

そこからはもうこの世の言語では形容できない。言語を言語で形容できないなんて!(喜)。「夢 希望 傷だらけで笑いあう友達 あの子の笑顔 全部ないよ 始まりはいつも空っぽ」残酷な現実を作品に変える錬金術とでも言っておこうか。「あの日は慣れていった希望に ざまぁみろっていってやる為に 何度も立ち上がるんだ もう一度」最後は極めて珍しい締めくくりだ。希望的観測がみられる。たまにはこんな終わり方があってもいい。そして秋田氏に少しばかり光がさしたのかもしれない。何も解決していないので手放しには喜べないものの、もう一度やってみるかと思わせてくれる珠玉の1曲となっている

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