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雨男って曲なんだけど…

雨男って曲なんだけど…

まず雨で一曲作れること そしてamazarashiが遂に雨で一曲を作ったことから非常に取り上げ甲斐のある作品だ。
前奏の聞き応えは抜群。雨音のようなメロディアスな曲調に『ひどく疲れた幾つもの顔が 車窓に浮かぶ東横の高架 僕はと言えば幸か不幸か 道外れた平日の落伍者』と始まる。今回の舞台は東横線。落伍者であることを幸か不幸かと表現する。つまり落伍者でよかったかもしれないという可能性も微レ存というわけだ。
『迷子が泣き叫ぶ声にも似た 愚にもつかない弱虫の賛歌』人生で「愚にもつかない」という言葉を使ったことがあるだろうか(私はないので調べたら「馬鹿らしい」という意味だそうです)。あえて歪曲表現をすることで、より心情を繊細に描写する。「迷子が泣き叫ぶ声にも似た」という比喩のチョイスがまた..。「弱虫の賛歌」という表現もサウンズグッド!『暗闇と生涯暮らすには 僕はもう沢山知りすぎた』いやー。いいですねここの表現。暗闇と暮らすという比喩から、たくさん知りすぎたがゆえに光の下に出なければならないと。暗闇から抜け出すのは良いことのはずなのにあたかも不満かのごとく論述される。

サビは流石amazarashi楽曲アンケートで1位を取るだけある。『優しくされたら胸が奮えた それだけのために死んでもいいや 本気で思ってしまった 笑ってよ 笑ってくれよ』この部分を抜粋するともはや私の言葉など電車の床のごみレベルに無価値になってしまう。言葉にするのは無粋というべきか。優しくしてもらったことが本当に嬉しいと。その表現を限界点まで持ってくると、「それだけのために死んでもいいや」という形になるのか。そしてそこだけでは終わらず「本気で思ってしまった 笑ってよ」と、一応死ぬレベルはないなという自覚は持っているぞという表現が続く。いやー、「笑ってくれよ」までがすべて胸が奮えたを形容しているかというか。全く蛇足ではない。『項垂れてのぞき込む水たまり うつりこむ泣き顔踏みつけたり』韻が固い!そしてここぞキラーフレーズ、『そういやいつかもこんな雨だった』が繰り返される。繰り返しをしようすることで徐々に四肢の感覚が一説に奪われていく。秋田氏はよく繰り返しを使うよね。言葉にするのは難しいが、秋田氏が繰り返す言葉は造語ならぬ「造節」だと思っている。なかなか他のアーティストが繰り返しに使わなそうな節を強調する。以前まとめた『空っぽの空に潰される』も造節の繰り返しだ。今回も「そういや」、「いつかも」、「こんな雨だった」というワードをくっつけ、聞き心地も共感度も抜群な造節を作り出している。

amazarashiの良さは決まって2番に来る。『未来の話は嫌いだった だから約束もしたくなかった』明日のことなど考えてたら身が持たねえって私も常日頃から思っている。悉く社会不適合者である。『久しぶりに電話をかけてきた 聡はひどく酔っぱらっていた』これは実際の出来事だろうか。だとしたら実名まで出していいのかw。唐突に始まる現実的な過去に夢から覚めたような気分になる。この後が半端じゃない。本当に。『馬鹿な世間話をした後に 約束したんだ「行こうぜ飲みに」』なんと約束を取り付けた。このたった数行で物語をつくる叙述トリック。本当に些細な会話だが日常をこうして切り取ると映画でも打ち出せないような素晴らしいシーンになる。これをさらりと作品に落とし込むからイケメンなんだよなーーーー。『がむしゃらに駆けた無謀な日々を 懐かしむだけの飾りにするな  恥さらしのしくじった過去と 地続きの今日を無駄となじるな』この説教いや、戒めはたまらない。たまに腹からにじみ出る様な命令口調で自分に檄を飛ばす秋田氏。自分が教示を受けているような錯覚。『心がつぶれた土砂降りの日に すがる者はそれほど多くない だからあえて言わせてくれよ 未来は僕らの手の中』あれだけ未来の話が嫌いだった彼が「未来は僕らの手の中」と口にする。心がつぶれた土砂降りの日かあ…そういう意味で『雨男』なのだと再認識する。
『友達の約束を守らなきゃ それだけが僕の死ねない理由 本気で思ってしまった 笑ってよ 笑ってくれよ』さっきの聡との約束だろうか。恥ずかしながら私も死にたくないのはなんでだろとしばし考えることがある。そういう時、少し先に予定があるからとか、友達の結婚式が見る間で死ねないとか、些細なことにかこつけては自分を納得させるが、一方でそれらは、自分にに「生きねばならない」と言い続けて本当の気持ちに嘘をついている感覚になる。しかし偽ったままでいい。秋田氏は「笑ってよ」と自虐表現をするが、この感覚を持っている人が言葉にしてくれるだけで、日々作り上げる私の死ねない理由が正当化される気がした。
『「やまない雨はない」 「明けない夜はない」とかいって明日に希望を託すのはやめた 土砂降りの雨の中 ずぶ濡れで走っていけるか 今日も土砂降り』自分の言葉を自分で言い負かす言葉遊び、『吐きそうだ』で秋田氏が歌った歌詞。「明日に希望を託すのはやめた」という箇所まで歌い上げるのが秋田氏。人を救う言葉にテンプレートなどないと証明してくれるのがこういう歌詞構成だ。秋田氏は自分を偽って走り続けるのではなく、無理なものは無理とはっきり伝えてなお藻掻く。理想論で歌詞を書かない美しさが凝縮されたバースだ。こういう多少ひねくれた歌詞が、逆に美しく生きれない人々に勇気を与えるのだろう。そしてこのような単純ではない答えに食らうのは、おそらくこの社会で生きにくさを感じているはみ出し者たちだ。かくいう私がその一人である。最後に繰り返される『そういやいつかもこんな雨だった』は明日も晴れることのない人生を助長している。明日は晴れると希望的観測を謳うのではなく、雨の中でどう走るかを考えることが我々の定めなのではないか。自分以外に期待をし変化を求めることしかできない脆い自分のケツを引っぱたく様なメッセージがこの曲に込められる。「雨の中でも戦い続けられるもの」こそが秋田氏の言う『雨男』なのだろう。

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