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『ハルキオンザロード』って曲なんだけど…

『ハルキオンザロード』って曲なんだけど…

村上春樹の曲だと思ったら全然違ったw
どうやらハルキ氏は元々一緒に音楽をやっていたメンバーだそうだ。ネットで考察等々あるらしいが、特に読まずに進めたい。聞いたありのままを自分の言葉で書くことが重要だと思っている。
『僕らの別れは最初から決まっていた 墓跡に刻みたいくらいだ 君と過ごした数年は』いきなりのバッドストーリー。こういう構成には思わずワクワクしてしまう。ちなみに大学の講義で教わったのだが、下げ→上げのストーリー構成はCM等マーケティング手法として最も効果的らしい。例えば某消臭剤のCMでは、家が臭い(誰しもに経験のある日常風景)→消臭剤を使えばこんなに匂いが消えます!なんて下げ→上げで親和性高さをアピールする。今回秋田氏の曲もその類ならば、音楽にもその手法が非常に効果的であることの証明になる。『ピックアップトレーラーにそれぞれ雑魚寝して』まてまて。このワードセンスが最高だ。なぜ無限に移動手段が存在する現代において、あえてピックアップトレーラーをチョイスしたのか。秋田氏は聞き心地や世界観等色々な角度から曲を作るだろうが、単語一つとっても気になってしまう。『ハルキは本当に人生が下手だから』人生が下手という表現。あまり言い慣れないが、なぜかストンと腑に落ちる。『放り投げた体が 落下したとある夏の一夜 そこが我が家だって顔で生きていた』これは何かの比喩なのだろうか、、ピクサー映画みたいなメッセージ性の強い素っ頓狂さを感じる。ふわふわとしつつ、どこか現実めいた具体性を帯びるこの塩梅は秋田氏ならではの特徴と言っていいだろう。
『道なき道 すらない道 辿ったのではなく描いたのだ』「道なき道ですらない道」という表現があまりにも好きだ。あえて「険しい道」や「いばら道」などの誰にでも思いつきそうな簡易語に逃げない。そして辿ったのではなく描いたというところもポイントだ。秋田氏の作詞一部始終密着24時をしたい。何度消しては書いてを繰り返すのだろう。逆にすっと出て来るのかもしれない。細部まで表現の限界を追及している。私はこのような表現を聞き流したくない。秋田氏こそまさに言葉に関して辿っているのではなく描いている張本人だろう。
『生きるという名前の列車に乗って 時間後ろ姿追い越した 相席をした彼の名は悲しみ それを知ったのはもうずいぶんと後』
ここは最高だああああ(自我の崩壊)。圧倒的比喩表現極限の舞。類稀な比喩だが理解するのはそう難くない。生きるという概念は我々を運ぶ器と例えられる。さらに時間を追い越すとはということは今の一秒が既に過去の一秒になるということ。つまりそれを「追い越した」と考えることは全く不思議なことではない。生きるうえでいつも隣り合わせなのは喜びと悲しみだ。なかでも悲しみがその時は相席したそうだね。更にリアルタイムではなく、随分と後に知ることになるというのもポイントだろう。「生きている」を言葉にすると、しばしこれらに尽きるのかもしれない。

『ライブの打ち上げで 酒癖悪いやつに絡まれて さっさと逃げ出して そいつのバンに立小便』秋田氏は突然ノンフィクション待ったなしの具体化を始める。しかも今回も実に笑いがこみ上げるというか、軽いコメディだ(本人は笑えないだろうが)。そして決まって、この後になぜ与太話をここに持ってきたのかしっかり語られるのが、秋田氏の作詞構成だ。
…と思いきやこの後立小便について触れられる箇所はなかった。
『美しい記憶はいつも夜だ』この一文を聞きハッとした。確かに意識してなかったけど夜のほうが多いかも。暗闇のほうが視界が狭まり集中する。五感をつかって物事を掴み取ろうとするため、記憶に残りやすいと聞いたことがあるが、果たして脳構造的に説明だけで済むのだろうか。
『想像力で飛べるなら 宇宙の果てじゃなく僕の中 見たい景色を掘り返す 墓暴きみたいに掘り返す』ここ好きなんすよねえ。未知よりも忘れかけている既知を取りに行く。しかも墓暴きみたいに乱雑に。こういう現実ベースなニヒリズムこそ秋田氏だ。『デカい夢ほど僕等は汚す 例えば作業服のペンキ跡 ロマンチストはいつも泥まみれ』これは大きい夢を抱いている人にしかわからないかも。少なくとも私は当事者意識というよりは「なるほど」と思った。汚して洗ってを繰り返し、夢は精査されていくのかもしれない。ロマンチストに関して、私たちは綺麗な作品や佇まいしか知らない。実際ロマン家になると、想像するより遥かに泥まみれだということか。
『馬鹿でかい音楽 投げやりな酩酊 世界の心理が休符の隙間』秋田氏にとって、町の雑音や酔っぱらいがこういう風に映る時があるのかもしれない。世界の心理はこんな雑多の中でこそ、唯一はっきりと捉えられるものになってくるのかも。『愛した彼女は砂漠の一滴 時間の速度で飛び散って干上がる』「愛した」という過去形がポイントだろう。なぜかあんなに愛したのに、別れた途端急速にその記憶が忘れ去られる。さながら砂漠の一滴だ。サビは比喩で埋め尽くされ、一見構成が散乱しているように見える。しかし秋田氏に限ると実際そんな作詞はしない。この曲はまさに、生きる×時間軸×記憶に集約される曲だ。
『青春と呼ばれた無残な抜け殻 君が変わったように 僕も変わった 僕らの別れは最初から決まっていた 一番眩しい恒星ほど 燃え尽きるのも早いんだ』
「青春と呼ばれた無残な抜殻」秋田氏にとって、ハルキ氏にとって、青春とはただの抜殻なのだろうか。結局我々にとって過去と今は線でつながっているのだろうか。美しい思い出こそ抜殻のように感じたことはないだろうか。そんなことを考えながら聞き進むと「眩しい恒星は燃え尽きるのが早い」と出て来る。眩しい恒星と例えるあたり、やはり秋田氏は青春を悪い意味で抜殻とは言っていない。ただあの日々は何だったのだろう。青春とは何を指すのだろう。そんなことばっか考えているのだ。そして言葉にしようとすればするほどドツボにはまっていく。もはや思考とはタイムリープであり、輪廻だ。「道」とか「人生」とか「青春」を理解しようとする際、我々はそれを概念ではなく形で捉えようとするが、考えを深めるほど、改めて形而上学なものでしかないと認識せざるを得ない。
『ハルキ君は僕にとって腫瘍だ 手の施しようのない未知への衝動 眩しい光ほど誘われる虫 白日の下でどこへ向かえばいい?』腫瘍を例えとして召喚する者がいるかね。「腫瘍」は、未知への衝動という良い方向へ導いてくれる一方で、自分の意志と無関係なほうへ秋田氏を向かせる。そうなると思いがけぬ不幸があるのも当然だ。そういう意味で「腫瘍」なのかも。リターンとリスクは表裏一体。だが自分一人では生まれなかった衝動により、結果として道が開けているのも事実だ。そんなもやもやを秋田氏は自分に必要な「腫瘍」と言い放ったのではないか。『今でも露骨に照らす夜明け』。「夜明け」。最後になるが構成の末尾はこの言葉の繰り返しだった。こちらの考えすぎなのかもしれないが、「美しい思い出は決まって夜」と末尾に持ってくる「夜明け」は何かしらの因果関係があるのかもしれない。また、何よりハルキ氏のことだけで1曲書いてしまう相変わらずな秋田氏に脱帽せざるを得ない。

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