宣長改姓の謎? 先崎彰容『本居宣長』 3

 先崎彰容氏、それは書き手としてどうなの?という話をする。

 まずは若き日の宣長をめぐる状況を整理する。(前回の記事はこちら

 兄・定治(宗五郎)が急逝したため、宣長は21歳で小津家の家督を継ぐことになった。当時家のことを差配していた母・お勝は、宣長が商売に疎いことを心配し、宣長は京都で学問して医者になるのが良いと判断した。宣長は母の勧めにしたがって京都に遊学し、同時に、姓を商家の屋号である「小津」から小津家の先祖(ただし養子入りにより血筋は絶えている)の姓である「本居」に改めた。

 先崎彰容によれば、宣長の改姓について、これまでの研究者は注意を払ってこなかったのだという。

従来、宣長研究者はこの本居姓への改姓について、特段の注目を払っていない。たとえば古典的研究である村岡典嗣の『本居宣長』では、「彼は血統に於いて、全然小津氏の出で、本居氏の出でない。かつ本居家は、已彼の伯父永喜によって復興せられてゐた。彼が本居姓を名乗ったのは、復姓とは言ふものの、血統上の意義はない。思ふに彼の好む所にいでたのであろう」と述べるにとどまっている。宣長が、血統からすれば何ら関係をもたない本居姓に改姓した理由を、村岡は、好みの問題に解消してしまう。あくまでも宣長の嗜好だというのである。
(中略・小林秀雄もこの問題を簡単に済ませていることに言及する)だが江戸時代に生きた人間が、そう簡単に屋号を捨てて、医者になることなどできるだろうか。宣長にとって屋号を捨てるとは、単に職業を変えるといった近代的かつ個人的な選択の問題ではないのであって、伝統を否定すると同時に、自分も一存在として宙に浮くことを意味する。これは自分が何ものでもない「存在」に放りだされることではないか。

先崎彰容『本居宣長』43頁

 ということで先崎は、宣長が小津から本居に改姓したことには、彼のアイデンティティにかかわる問題があったのではないか、と推測する。そしてその理由を推理していくのである。

 先崎の結論は、宣長にとって先祖の本居氏が本来は武士だったことが重要だった、ということである。

 商人の道になじめない宣長は、商家である小津家の継承者にならなければならないという重圧と戦っていた(これがまちがいであることは前々回前回の記事に書いた)。学問して医者をなれという母の提案は、それゆえ彼にとって救いであった。ちょうどそのころ、宣長は小津家に伝わる一通の古文書を眼にする。

 そこには、戦国時代に武士として活躍したご先祖様が本居の姓を捨てて小津家の一員となり、商人となるまでの経緯が記されていたのである!(詳しいことは省略)。

この一文を眼にした若き日の宣長が、どれほどの混乱と解放感を味わったのかは想像を絶する。
(中略)宣長は、実は商人という所属自体が、過去の抹殺のうえに成り立つ仮初めのものであることを発見したのである。宣長は商人にならずとも、過去を抹殺せず、自己をしっかりと支える足場があることを感じた。父の役割を放棄せずとも、本居姓を名乗り、武士として生きる道があることをしったのである。

同書48頁

 要するに宣長は、本居氏が本来武士の家柄であることを知ることで、商人という小津家の伝統の重圧を逃れることができたのだという。

先に混乱と開放感といったのは、この点にかかわる。商人家業を放棄し、所属のないまま世間に放り出された宣長は、「本居」姓の発見によって、からくも過去との繋がりを確認することができた。宣長にとって武士という過去は、束縛ではなく解放なのだ。人は過去とつながることによって、自由になることもありうる。武士という過去を取り戻すことは、自己形成の重要な部分を占めていた。

同書49頁

 一読したとき、ひとつの指摘としてそれなりに面白い話になる可能性もあるのかな、という気がした。小津家の家業をはなれて医者を志すことになった宣長が、心機一転、新たなアイデンティティを確立するために本居姓に注目したということは、一応あり得そうな話だと思ったからである。本居氏の先祖が武士であることについて宣長がまんざらでもなく思っていたらしいことは、彼の『家のむかし物語』の記述を読んでもわかる。

 ここで問題は、宣長は、本居氏が武士に出自を持つことをいつ、どのように知ったのか、ということである。

 この問題について先崎は、松本滋(宗教学者・故人)が提示したという「仮説」を手がかりとして、考察に入っている。

『本居宣長の思想と心理』の著作がある松本滋は、若き日の宣長が読んだ可能性のある文書が、『家のむかし物語』に挿入されているという仮説を提示している。「吾家に伝はれる文書一ひら」がそれである。京都遊学直前に宣長はこの文書にふれ、甚大な影響を受けた。それが京都到着直後の改姓決断につながったものと思われる。以下、松本の仮説をふまえながら、なぜ小津から本居に姓を変更したのかをめぐる謎を解き明かすことにする。

同書44頁

 どこまでが松本の「仮説」なのか、ちょっと分かりにくい書き方である。太字にした部分は先崎の考えなのか、そこまでふくめて松本の説なのか?

 みなさんはどう思いますか?(考えてみよう!)

 しかしとりあえず、松本の「仮説」は、本居氏の先祖について記した古文書を若き日の宣長が眼にした可能性にかかわっているらしい。そしてその「仮説」をふまえて先崎は、宣長が本居氏の出自を知ったのは「京都遊学直前」だと考えたらしい。

 というわけで取材班は図書館に行き、松本滋『本居宣長の思想と心理』を借りてきた。

 そこには、次のように書かれていた。

(前略)宣長の京都遊学は「母なりしひとのおもむけ」とはいえ、彼自身にしてみれば、小津家代々に伝わる商人の道からの訣別を通して、自らのアイデンティティーを確立しようとする重大な転機であった。したがって小津の家名をすてたのは、単なる「好み」によるのではない。それは、宣長の自己確立への切実な思いのこめられた、きわめて象徴的な行為であったと見るべきである。

松本滋『本居宣長の思想と心理』31頁

 松本によれば、この時期の宣長はいわゆる「アイデンティティーの危機」に直面していた。宣長は周囲から商人として身を立てることを期待されていたにもかかわらず、和歌や学問に心を寄せ、商売には身が入らなかったからである。小津家の伝統と葛藤しつつアイデンティティを追究する宣長が出会ったのが、家に伝わる一通の古文書だった。それを読んだ宣長は、小津家の先祖、本居氏がもとは商人ではなく、武士だったことを知る。こうして宣長にとって、小津家の家業・家名は伝統としての絶対性を失う。宣長は本居という先祖の姓に復すことで、小津家の重圧から解放され、自己のアイデンティティを確立することができたのである。

 おわかりいただけただろうか。

 要するに、宣長改姓の背景に小津家の伝統との葛藤を想定する先崎の議論は、松本滋の説の焼き直しなのである。

 先崎先生…それはないでしょう。

『本居宣長の思想と心理』の著作がある松本滋は、若き日の宣長が読んだ可能性のある文書が、『家のむかし物語』に挿入されているという仮説を提示している。

先崎彰容『本居宣長』44頁

 こういう書き方をされたら、松本の「仮説」は若いころ宣長が小津家の古文書を見た可能性がある、ということだけかと思いますよ。先生の議論全体が松本説を下敷きにしていることが分からないですよ。

 というかそもそも先生、こう書いてたじゃないですか…

従来、宣長研究者はこの本居姓への改姓について、特段の注目を払っていない。

同書43頁

 松本滋さんが注意を払ってるじゃないですか…

 まさかと思いますが、松本滋は宗教学者であって「宣長研究者」ではない、なんて言わないでしょうね…

 そもそもこの部分、宣長の改姓があまり問題とされていなかったことを示すために村岡典嗣と小林秀雄の2例を挙げることからして、松本の本の引き写しに見えるんですが…

 こうなると1981年に出た松本の著書から現代に至るまで、宣長の改姓に注意した研究者が他にいないのか、疑問に思えてくる。しかし私もそこまでは確認していない。詳しい人、おしえてくだしあ。
 
 念のため言っておけば、先崎が剽窃をしているというのではない。いちおう松本滋の名前は出しているし、小津家の古文書を見たことが宣長の改姓とかかわっているという推測までふくめて松本の説として書いている、と言い張れなくもない書き方ではある。とはいえこれが大学生のレポートだったらまちがいなく指導対象だろう。どの部分が先行研究の主張でどの部分が自分の考えなのか、明確にわかるように書きましょう。アカデミックライティングの基本である。

 しかし、私が言いたいのはそこではない。

 先崎は、すでに松本滋が宣長の改姓に注目していることを分かりにくくした上で、実際にはほぼ全面的に松本に乗っかった議論をしている。

 そういうやりかたが、書き手として「せこい」と思うのである。

 とはいえ松本と先崎には、重要な部分で違いもある。宣長が小津家の古文書を見た時期をいつと考えるか、つまり、宣長は先祖が武士だといつ知ったのか、という問題である。

 松本滋は、宣長が古文書を見たのは、18歳頃だと推測している。その主張を整理すると、

・宣長は15,6歳のころ系図に関心を持ち始めたらしく、中国の歴代皇帝や日本の天皇・将軍家などの系図を書写している。
・18歳のころ、宣長が手記などに「小津」ではなく、「本居」姓をつかって署名する例が出てくる。
・ここから、次のように推測できる。

おそらく、二、三年の江戸滞在以後、寛延元年十九歳の秋に今井田家養子となるまでの間の時期に、宣長は自己の家の系譜について何か知るところがあったのではなかろうか。もともと古い文書を読んだり写したりすることの好きな彼のことである。ある日何かの機会に、家に伝わる古文書を目にし、これを読みふけったということは十分ありうることである。

松本滋『本居宣長の思想と心理』34頁

 宣長が18歳頃から個人的な署名に「本居」姓を使い始めたことは、彼が先祖に関心を持ち、それに自己を同一化させはじめたことを示している。そのきっかけとして、家の古文書を読んだ経験があった。以上が松本の推測である。そしてその3年後、兄の死去によって家を継ぐことになった宣長は、家長として正式に本居への改姓を決めた、ということになる。

 これに対し先崎は、宣長が古文書を読んだのは「京都遊学直前」だとする。

京都遊学直前に宣長はこの文書にふれ、甚大な影響を受けた。それが京都到着直後の改姓決断につながったものと思われる。

先崎『本居宣長』44頁

 兄の突然の死によって小津家の重圧にさらされることになった宣長が、茫然自失のなかでたまたま家の古文書を読み、商人の家という小津家の伝統から解放された。それが先崎の主張である。(ということは、上の引用はやはり先崎自身の主張であり、松本説の説明ではないということになる?)

 年表風に整理してみよう。
 
・宝暦2年(1751)2月、兄・定治が急死。宣長、江戸に向かう。
・同年7月、宣長、江戸で定治の財産などを整理し、松坂に戻る。
・宝暦3年(1751)、3月、宣長、京都遊学に旅立つ。

 つまり、先崎の主張にしたがえば、宣長が古文書を読んだ可能性があるのは宝暦2年7月後半から翌年3月まで、長くみて8カ月のあいだということになる。なぜこの時期なのか?たまたまであるらしい。まあ可能性はゼロではないが…

 好意的に考えれば、家督を継ぐことになった宣長が家の文書も相続し、これを読む機会を得たのでは、という推測はできるかもしれない(それくらいの推測自分でやれば良いのに)。しかしそれでも、松本滋が注目していた、宣長が18歳頃から「本居」姓を使い始めるという事実は説明できない。

 要するに先崎は、小津家の重圧からの解放というストーリーと結びつけるため、宣長が文書を読んだ時期を不自然に限定するという無理を犯している。若き宣長が小津家の古文書を読んだことをきっかけに「本居」という姓への関心を強めていったという推測としては、松本滋の説のほうがまだしも説得的である。

 まあ、松本説にしても蓋然性の高くない推測にとどまるけどね。そもそも考えてみれば、家の古文書を宣長以前に小津家の人々が読んでいなかったということからして、ひとつの仮定でしかない。古文書といっても江戸時代の人には普通に読めただろう。ということは、いまは商売やってるけどご先祖様は武士だったらしいよ、というのが小津ファミリーの常識だった可能性も普通にあるわけですね。

 ちなみに次のようなまちがいもあった。

もちろん後に、虚構の世界(※19歳の宣長がつくった架空の士族の城下町地図や系図のこと)ばかりでなく、実際に自分には武士の血が流れていることを知る。

同書51頁

 最初の方にちょっと書いたように、実際には宣長は、武士だった本居氏の血を引いていない。宣長の父・定利は小津家に養子に入った人であり、血筋として本居の系統ではないからである(村岡典嗣『本居宣長』8頁)。30年以上宣長を読んできたという人が(先崎の「あとがき」参照)、なんでこんな間違いをするかね。新潮社の校閲も仕事しろよ。

 結論。

 先崎彰容氏は、保守とか日本の発見とか偉そうなことを言う前に、動かしがたい史実の重みと、先人の業績の尊重を学ぶべきだ。江藤淳風の陳腐なストーリーにあわせるため事実を歪曲していることを自覚するべきだ。読者にわかりにくいようにして先人の議論を焼き直すような、せこい真似はやめるべきだ。

 かの鈴屋の大人もこう書いておられるぞよ。

ちかき世、学問の道ひらけて、大かた万づのとりまかなひ、さとくかしこくなりぬるから、とりどりに新たなる説を出す人おほく、其説よろしければ、世にもてはやさるるによりて、なべての学者、いまだよくもととのはぬほどより、われおとらじと、よにことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今の世のならひ也。其中には、ずゐぶんによろしきことも、まれにはいでくめれど、大かたいまだしき学者の、心はやりていひ出ることは、ただ人にまさらむ勝むの心にて、かろがろしく、まへしりへをよくも考へ合さず、思ひよれるままに打ち出る故に、多くはなかなかなるいみしきひがことのみ也。(後略)

「あらたなる説を出す事」『玉勝間』

 巻末注と参考文献を入れて350頁ほどある本書、宣長の家と改姓の問題でようやく50頁ちょっと。それだけでこれほど問題が出てくると、正直あとの部分を検討するのダルくなってきたよ…

 ところで、『家のむかし物語』によれば、宣長が本居姓について本格的に調べはじめ、かつて自分の小津家が分れたもとの本居家を尋ねたのは、40歳を過ぎてからだという。本居への改姓が宣長自身のアイデンティティ確立にかかわる深刻な問題だったとすれば、知識欲旺盛な彼のことだから、もうちょっと早く調べそうな気もする。

 やっぱり宣長の改姓は「彼の好む所にいでたのであろう」(by村岡典嗣)でいいのかも。

チャンチャン。

つづく?

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