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#74 「悪いことをする」よりは「よいことをしない」ほうがまだましなのでしょうか?

 普通なら、「悪いことをする」よりは「よいことをしない」ほうが、まだましと考えるでしょう。悪いこともしないけど、かといってよいこともしない――それが、今の現代社会や学級社会をむしばんでいる元凶のように私には思えてなりませんでした。だから私は、自分の教え子たちがそういう大人になって欲しくなかったので、道徳の授業でも、学校生活の中においても、いつも子どもたちに「よいことをしない」のは「悪いことをする」のと同じだと指導していました。これを私の学級社会作りの土台にしてきました。

 たとえば、だれかが電車のレールの上に石を置いたとします。これは悪いことです。一方、それを知りながら注意せず、石を放置した人がいるとします。この人は、自分ではたしかに悪いことはしていないかもしれません。しかし、よいこともしていません。そのため、電車が横転して大きな事故を起こしたならば、レールの上に石があることに気づいていたにもかかわらずそれを放置したことは、結果として悪いことをしたのと同じになるのではないでしょうか。(仮に今回は電車が横転しなかったとしても、放置した結果、多くの乗客の命を危険にさらしたことはまちがいないと思います。)

 もっと例を挙げれば、クラスの中でいじめが起きたとします。当然いじめる子といじめられる子の当事者が存在します。しかし、クラスの大多数はいじめている子でもいじめられている子でもない子たちなはずです。

  この大多数の第三者的存在の子どもたちがクラスで起きた問題に積極的に関わることができるかどうかで自分のクラスがよいクラスかどうかはっきりわかるといつも私は考えていました。

  ですから、いじめの兆候を見つけると私はいつも間髪入れずに、全く関わっていない大多数の子どもたちへの指導が厳しくなりました。普通はいじめの当事者に指導の目が行くと思いますが、いじめの問題はいじめている子といじめられる子に指導するだけでは絶対にダメだと考えていました。

大多数の直接関わっていない子たちが、クラスの雰囲気を決定している。

 でも、そのクラスの雰囲気を決定するのに一番大きく影響を及ぼしているのは、実は担任なのです。もし、クラスの子どもたちの中にいじめを許さない風潮や、困っている友だちを見て見ぬふりをしない風潮を担任が学級経営の指導の中で構築できていたとしたら、クラスの中で担任の目の行き届かないところで多少子ども同士のいざこざがあったとしても、大きな問題にはならないと考えていました。

 なぜなら、子どもたちはみんな「自分のクラスでいじめがあるのはいやだ」と誰しも思っているからです。道徳の授業では当然いじめの問題も扱います。その時に自分がいじめの当事者でない場合にどうすべきかを徹底的に話し合いました。いろいろな意見が出されましたが、最終的に子どもたちに授業の中で私が詰め寄ったことは、「クラスの中でいじめが起きているのがわかっているのに、見て見ぬふりをしているそんな自分でいいのか。」といった自問自答でした。

 クラスは一つの社会です。どんな学級社会を構築するかは担任の指導力にかかっていると言っても過言ではありません。私は日頃から子どもたちに以下のことを機会あるごとに指導していきました。

1 クラスの友だちと積極的にかかわろう→なぜ積極的に関わるべきなのか

2 これはおかしいと思ったことは、お互い遠慮しないで声を上げよう→もしそれが言えないとしたら、言えないこと自体が問題である

3 子どもだけで解決出来ないことは迷わず大人に相談しよう→先生にチクってもいい時がある 

4 クラスが楽しくないと思ったらその原因を見つめてみよう→自分が感じている違和感に正直になろう

 いじめについては、様々な視点から考えていくことが大切だと思います。上記の内容は、担任(学級経営)の視点から指導上心がけるべきこととして私が思っていたことを書いたものです。もちろんこれだけでいじめを防げるとは考えていません。いじめの問題は、学校は学校として、親は親として教師は教師としてアプローチしていかなくてはいけない問題です。しかし、担任が学級経営の一環の中で、「できること」があることを自覚して欲しいと思います。何故なら、担任の子どもたちへの影響力は今も昔も絶大だからです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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