#61 すべての発言が承認されるとしたら
もう20 年以上も昔のことで す 。作家の遠藤周作さんが生前、講演の中で自身の著書が大学入試の現代国語に採用された時の話を した ことがありました 。その問題を遠藤さんも解いてみまし た。ある文章に傍線が引いてあり、「この時、主人公はどう感じたか、次の四つの中から答えよ」という問い でした 。
答え合わせをしたら遠藤さんの解答は不正解でした 。遠藤さんは「作者は俺だよ。なんで俺の答えが違うんだ?」と会場を どっと 笑わせてい まし た。実は遠藤さん、四つすべてに丸を付けたの でした 。
「人間というのはいろんなことを感じるんだ。一つに絞るなんてできないんだ 」
と遠藤さん が 話してい たのが印象的でした 。
結城花梨 さんは「 絵で見える小説的な授業の世界 」の著書の中で、小学生の頃、国語の授業で忘れられない思い出があると語っています 。
その後、結城さんは無意識に「授業とは自分の気持ちや感じたことを言うのではなく、先生が求めている『正解』を言わなきゃいけないのだ」と思うようになったそうです 。そしてその後大人に近づくにつれ「授業とは事前に『正解』が決まっているものではなく、教師と子どもたちによって作られるもので、誰も結末が予想できないものだ」ということ。つまり、創造的であり想像的であるべきであると考えるようになったそうです 。
「登山に例えると、『山頂』というゴールがあり、そこに辿り着くルートが決まっていて、そこから外れると正しいルートに導くのが授業であると思われている。しかし、山頂を目指すものではなく、子どもと一緒に山に入って川や花や木について学ぶことを楽しむ。その時感じたことはすべて子どもにとって必然性があり肯定される。これが授業ではないか」と言っています。
そしてこう続きます。
「教師がなぜ『正解』から外れた発言を『間違い』と指摘するのか。それは授業が自分の意図したものではなくなるという『恐れ』を感じるから」
ではないかと。さらに「確かに、自分の発言に対して先生から『そう思ったのか。すごいな。先生も気が付かなかったよ』と言われると子どもは自信になるだろう。正解を言わなきゃいけないという『縛り』から解放されると、自由に考えたり、発言できるようになるだろう。こんなワクワクワク感のある授業を子どもの頃受けたかった。」と述懐しています。
私自身、授業の中で自分が子どもたちにした発問に対して、想定していた以外の発言が出てきた時、果たしてどれだけフォローできていたのだろうかと振り返ってみると、あまり自信がありません。子どもの発言をどれだけ授業の中ですくいとっていただろうかと。しかし、授業が盛り上がったのは、私が意図していない展開になり、いつも自分が想定していない発言が飛びかっていた時の方が、皮肉にも子どもたちはよく考え、主体的に授業を進めていたように思えてなりません。
教師が考えている正解を子どもたちが言わなければいけない授業を続けていくと、子どもたちは授業の中でいつも先生の顔色ばかりうかがい忖度するようになります。一見意欲的に子どもたちは学習に参加しているように見えたとしても、それは主体的な姿と一線を画するものであり、意欲的な姿が主体的な姿に昇格することはまずありません。そのような授業スタイルばかりだと、上位の子どもがレベルアップすることはあっても、下位の子どもはアップしません。むしろ、ますますその差が乖離していってしまいます。たとえば、挙手発言、手の上がる子どもだけ優先的に指名して発言させていくとどうなるでしょうか。発表能力にますます格差ができます。教師が意図していなくても、できる子どもを中心とした授業の流れになってしまうので。それでは子どもたち全体を底上げすることにはつながりません。
教える側は「能力差があっても意欲差はなし」ということをしっかりとらえて、授業に取り組まなければいけません。その考え方が、子どもたちに平等に学習活動の機会を与えることにつながります。子どもが真剣に考えて発言したことは、それが仮に教師から見た場合、的外れであったとしても、すぐに一蹴してしまうのではなく、なぜそう思ったのか、なぜそのような考えに至ったのか子どもの思いをすくいとってあげなければいけません。
これからは先の見えない世の中を生きていかなければならないのは、大人も子どもも同じです。そう考えると、先生が知っている正解を子どもたちに問うだけでなく、子どもたちと同じ土俵に立って考えたりしながら、いっしょに問題解決していく姿勢がこれまで以上に必要になってくるのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
よろしければサポートをお願いします。これからもみなさんに読んでいただきよかったと思っていただけたり、お互い励まし合い、元気が出る記事が書けるよう有効に使わせていただきます。