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#66 3つの奇跡を起こした日本人 3つめの奇跡(日本分断を阻止した終戦後の戦い)

 常識的に考えて、終戦の日と言われているのは1945年8月15日ですが、まだ戦闘は終わっていませんでした。北の戦線ではこれから戦いが始まろうとしていたのです。どういうことかというと、1945年(昭和20年)に入ると、戦局はますます悪化していました。4年前の1941年日本とソ連の間で結ばれた「日ソ中立条約」が有効だったので、日本はソ連を信用し、北の守りは手薄になっていました。しかし、ソ連の指導者スターリンは米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相とヤルタで会談(1945年2月)し、秘密協定を結んでいたのです。その内容は、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、ドイツ降伏後の2ヶ月から3ヶ月の間に日本に宣戦布告し、戦争に突入するという約束でした。その見返りにソ連は、樺太及び千島列島の領有や満州の利権を手に入れると言った卑劣な裏取引でした。

 1945年の戦況は次のように推移していました。

5月8日 ドイツが無条件降伏

6月23日 沖縄戦終結

8月6日 広島に原爆投下

8月8日 ソ連「日ソ中立条約」破棄して、対日宣戦布告

8月9日 長崎に原爆投下

8月14日 日本は連合国へ向かって降伏を表明

8月15日 玉音放送にて天皇が終戦を公表する

 8月15日の玉音放送から3日後の8月18日、スターリンはアメリカが上陸してくる前に一気にけりをつけようと占守島へ侵攻を開始しました。占守島は千島列島の最北端に位置する小島で、カムチャッカ半島の目前にあります。ソ連軍は1日でこの占守島を占領し、島伝いに南下して一気に北海道まで攻め込む計画でした。

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 終戦を迎えていた日本軍はこの重大事態にどのような対応をしたのでしょうか。この時の北方(第5方面軍)の最高司令官は引き続き樋口でした。彼は札幌で終戦処理に追われていました。しかし、彼は着任以来、占守島と幌筵(バラムシル)島の要塞化を進めてきました。この地に配属された兵士もノモンハン事件やガダルカナル島の戦いの生き残りの精鋭を集めていたのです。

 なぜなら第5方面軍司令官だった樋口は、陸軍きってのロシア通と言われ、情報に基づいた合理的かつ冷静な考えができる将でした。ソ連が攻めてきたと報が入ったとき時、おそらく他の指揮官だったら、日本軍の武装解除に来たのだろうと軽く考えてしまい、ソ連の魂胆を見抜くことができず、何ら抵抗せずにソ連軍に蹂躙されてしまっていたことでしょう。しかし、樋口は正式な調印が済むまではソ連は何でもする国だということを見抜いていたのです。「戦争終結後に必ずソ連は攻めてくる」と樋口はにらんでいました。樋口の回想によると、玉音放送を聞いた参謀らは涙を流している中、自分一人だけ一粒の涙も流さなかったと言っています。「それどころじゃない。これからがたいへんなことになる。ソ連が絶対にくる!」ソ連ならこの機に乗じて攻めてきてもおかしくないと考えていました。

 そして、終戦していたにもかかわらず、反撃することを躊躇せず即断できたのです。

 「我らは戦争に敗れたりと言えども、無法な行為は許すわけにはいかない!断固反撃に転じ、ソ連軍を撃滅せよ!

この樋口の司令官としての素早い的確な判断によって、北海道の占領はまぬがれ、日本は分断されずにすんだと言っても過言ではありません。

 樋口の命を受け、主力として最前線で奮闘したのが、「士魂部隊」と呼ばれた戦車第11連隊です。アリューシャン経由で来襲が予想されたアメリカ軍に備え、陸軍の精鋭が集められていました。率いるのは「戦車隊の神様」と呼ばれた池田大佐です。戦争が終わったのですから、隊員たちは故郷に帰るのを楽しみにしていました。その中、池田大佐は出撃に際し、「赤穂浪士となって恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか」と部下たちに問いました。「赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手をあげよ」と呼びかけたところ、全員諸手を挙げて「おう」と応えたそうです。家族と再会する夢を捨てて、「日本の防波堤」になるため、全員が玉砕を決意しました。池田大佐は涙ぐみながら、「ありがとう、連隊はこれより全軍をあげて敵を水際に殲滅する」と出撃命令を下したと伝わっています。池田大佐は隊長車に乗り込み、自ら先陣を切りました。まさしく指揮官先頭です。

 戦車第11連隊に配備されている主力はチハ車と呼ばれる97式中戦車でした(チは中戦車,ハは3番目の型を意味します。97式とは皇紀2597年制定、つまり、昭和12年型の戦車ということです)。このチハ車は残念ながら、独ソ戦を戦い抜いてきたソ連の当時最新鋭の戦車にお世辞にも対抗できる戦車ではありませんでした。この戦車の装甲は最厚でもわずか25mmしかありませんでした。装甲の薄い箇所だと、歩兵の銃でも射貫かれるほど脆弱な車体だったと言われています。しかもすでに8月15日を過ぎていたので、砲塔を外して武装解除を進めていたので、間に合った戦車はわずかに20両ほどでした。少数であり、しかも非力な戦車を強靱な精神で操って、池田大佐はソ連軍をなんと撃退してしまったのです。しかし、池田大佐は戻ってきませんでした。停戦後に見つかった焼けた隊長車の中で、壁面にもたれた状態で立ち姿のまま亡くなっていたそうです。

 一方、村上歩兵大隊も怒濤の砲撃でソ連軍を撃破しています。そのすさまじい反撃にソ連軍は耐えきれず、おびただしい戦死者を出して上陸した地点の竹田浜まで押し返されてしまったのです。

 そのまま守備隊が総攻撃をかけていたら、おそらくソ連軍は殲滅していたと言われています。しかし、まさにこの時に停戦命令が伝達されたのでした。あまりにも大きいソ連軍の損害を知って、極東軍最高司令官ワレンスキー元帥が満州の関東軍参謀長に仲介を要請したのでした。参謀長はこの仲介を受け入れざるを得ず、「直ちに戦闘を停止すべし。」との命令を発しました。戦いに勝っていた日本軍が壊滅状態のソ連軍に降伏したのです。日付は8月21日になっていました。降伏した日本兵たちはみな慟哭しました。

「我々は勝った。しかし、日本は負けたんだ」

 この後、占守島でソ連の侵攻を阻んだ日本の勇者たちは、シベリアの最も過酷な収容所に送られ、何年もの間強制労働に従事させられ。多くの人々が極寒の地で命を落として日本の大地を再び踏むことができませんでした。

 この占守島の戦いにおける日本軍の損害は、戦死傷者約600人、戦車42両。これに対してソ連軍は、戦死傷者約3000人、撃沈された艦艇14、船艇20と甚大な損害を出しました。スターリンは豆粒ほどの占守島でのソ連軍戦死者の数が、全満州に侵攻した戦死者の数をはるかに上回っていたことを知って、愕然としたといいます。ソ連のある司令官は「占守島の戦いは、甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録に書き残しています。

 占守島が占領された後、ソ連軍は侵攻を続け8月25日から31日にかけて、千島列島の島々を順次占領していきました。9月2日、東京湾の戦艦ミズーリで日本が降伏文書に調印して正式に戦闘が終結したにもかかわらず、9月5日までにソ連軍は択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島を不法に奪ったのです。千島列島と北方4島は未だに日本へ帰ってきていません。

 この占守島の戦いはとても重要な意義を持っていました。千島侵攻の最初の戦いである占守島の戦いで大きくつまずいたソ連軍がようやく北海道まで来た時、もうすでに米軍が北海道まで進駐してきていたのです。占守島の日本兵が命をかけて勇敢に戦ってくれたおかげで、ソ連軍の侵攻はスターリンの思惑よりもかなり遅れてしまい、米軍の北海道進駐を可能にする時間ができたのです。この結果、ソ連軍は北海道占領をあきらめざるを得ず、このスターリンの火事場泥棒的な野望は潰えたのでした。そして何よりも特筆すべきは、占守島の戦いが、日本を戦後の東西ドイツや朝鮮半島のように「分断国家の危機」から救った奇跡の戦いであったことです。もし戦後の日本が分断されていたら、朝鮮半島で起きた同じ民族同士で争う朝鮮戦争のような内戦が日本でも起こっていたかもしれません。樋口が即断せず反撃をためらっていたとしたら、今現在も「南日本国」と「北日本人民共和国」のように別れてしまったままになったいたことでしょう。全ての日本人は樋口の決断と占守島の守備隊の勇士に感謝しないわけにはいきません。

 これらの一連の事実は、戦後日本国内ではマスコミも学校の教科書にも残念ながら載っていません。(教科書には北方領土が日本の領土であり、ロシアに占拠されたままの状態になっていることだけは明記してあります。)樋口中将は軍人であったがゆえに杉原千畝ほど有名ではありません。戦後のマスコミや教育界は軍人を取り上げようとしないからです。しかし、3回にわけて記述してきた樋口中将の功績は、おそれながら杉原千畝も凌駕するものであることは、明らかです。

 失った領土は簡単に戻ってこないことは、歴史が証明しています。尖閣や竹島も同じようにもし、外国が侵攻してくるようなことがあったとしたら、今の日本の政治家や国民は樋口中将のような覚悟を持った決断が果たしてできるでしょうか。                4つめの奇跡へ

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 

 

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