見出し画像

Life. Now and Then

ごあいさつ

 ワタクシのペンネームはセバスチャン・コー。どこかで聞いたようなこの名前。どうしてそんな名前を名乗るのかは、次の機会にして、タイトルにあるように「Life= 生活=生きる」をテーマにワタクシの今までの出来事やこれからの事を分かりやすく面白く書いていこうと思います。そのスローガンはThe Blue Heartsの言葉を借りるなら「生きるという事に命をかけてみたい①」、さらに過激に言うなら頭脳警察の「死んだら殺すぞ②」の二つでいきましょう。

①The Blue Hearts「世界のまん中」作詞 甲本ヒロト
②頭脳警察「死んだら殺すぞ」作詞 Pantax's World

自己紹介

  • 2024年7月現在67歳の年金生活者

  • 2011年8月福岡市中央区より糸島市志摩地区に移住

  • 2013年パーキンソン病発症 2018年脳梗塞発症

  • 介護保険要支援2認定 指定難病認定 週2回リハビリ施設通所

  • ロックバンド「The Parkinsonz Plus」リーダー

  • 「The Parkinsonz Plus」YouTubeチャンネル開設https://youtube.com/@theparkinsonzplus?si=kALqFdtKqLEi6kKB

  • ウクレレグループ「粒あんクラブ」メンバー

  • リハビリ施設歌唱グループ「三人合わせて260(99+94+67)歳ズ」メンバー

  • 福岡糸島 VW Type1 Beetle Fan Club 代表

糸島VW Beetle Fan Club
会員シール



Who is Sebastian Coe?

⑴ 本物のセバスチャン・コー

セバスチャン・コー Sebastian Coe、ワタクシはこのペンネームを気にいっています。エキゾチックな響きが感じられるオリジナルの名前と思っています。しかし以前ロンドンオリンピックの中継を見ていて驚きました。同姓同名の人物がいたのです。年齢も誕生月も同じ。もっともあちらの方が本家なのですが、、、
彼は元陸上競技の選手でイギリススポーツ界のドンさらには国際オリンピック委員会委員に。選手引退後、保守党議員となった後一代貴族爵位男爵を得て貴族院議員に。従って正式にはSebastian Baron Coe①。彼の足元にも及びませんが、ワタクシにもミドルネームを入れるとすればSebastian King Coeかな。
① 出典ウィキペディアWikipedia 「セバスチャン・コー」

⑵ 鼎泰豊本店のセバスチャン・コー

ペンネームをセバスチャン・コーにしたきっかけは二つあります。一つ目は台湾台北市にある小籠包の有名店「鼎泰豊ディンタイフォン」本店(現在 信義店)の店先での出来事がきっかけです。ワタクシは鼎泰豊の小籠包が大好きです。台北だけでなくバンコクでもシンガポールでも行きます。博多駅店が出来る前は熊本城屋デパート店にランチに行ってました。台北の支店、さらにはのれん分けした新店舗にも行きましたが、やはり本店が一番美味しい様な気がします。その本店にはいつも世界中からやって来た客が店の前に集まります。お仕着せメニューを食べさせられる団体客以外予約を受け付けないので、来店して名前と人数をスタッフに告げ、名前を呼ばれるまで歩道上で待つしかありません。1時間待つのは当たり前となり、通行の妨げになっていました。順番が来て受付番号が表示されて番号が北京語と英語でコールされるのですが、番号表示が小さいのと番号コールが周りの騒音に消されてはっきり聞こえないのです。なかなか番号を呼んでもやって来ない客には少しイラついた声で名前を呼ばれます。そんな混乱を少しでも回避するためにいつの頃からか、新しいスタッフが現れました。インカムを付けた彼女たちは受付番号と名前を流暢なそれぞれの客の原語でコールするのです。中国語圏、英語圏はもちろんヨーロッパ語圏、東南アジア語圏にも対応できるのです。しかしワタクシの名前を呼ぶのはやや残念なことが多かったのです。「na」は「nya」に聞こえ、「hi」はhが消え「i」に置き換えられます。何ともマヌケな響きです。そこであるアイデアが浮かびました。
  呼びやすい名前で受け付ければいいじゃないか。本名じゃなくても。
     ↓
  初めて鼎泰豊で食べたのはシンガポール。
     ↓
  謎めいたシンガポール人風に。
     ↓
  思いついたのがセバスチャン・コー。「コー」は本名の音読み。
さっそく受付のスタッフに。
"Hello, I’m Sebastian Coe from Singapore,Two people.”
”O.K.Your number Seven Five."
スムーズに受付できました。「from Singapore」は念のために。そして小一時間後、ワタクシの順番が回ってきます。
”Seven Five, Seven Five. Mr.Sebastian Coe!"
"Yes!"
"Follow me please."
見事に入店できました。
P.S.2023年11月、コロナ禍も一息ついたので、久しぶりに台北に行きました。11月に行くのは初めてでした。総統選挙前ではありましたがまだ街は落ち着いていて、穏やかな気候と相まって充実した旅を楽しみました。もちろん鼎泰豊に行くのですが事前にチェックしていたのは、以前の本店は信義店となりテイクアウトのみを扱うようになりました。実質上の本店新生店が大通りの反対側に大型ビル店としてオープンしました。それに伴い今までの入店方式が一変しました。相変わらず一般客の予約は取らず、店頭での受付なのですが客の人数によって四つのグループ毎の受付番号を教えてくれます。店の前に番号が大きく表示されますが、スマホに鼎泰豊アプリを入れておくと受付番号で待ち時間を教えてくれるだけでなく、メニューもオーダーできるので席に案内されるとすぐにオーダーした料理が運ばれてきます。店の前の歩道も広くたくさんの客がベンチで座っていたり、スマホでオーダーしていますが通行人の邪魔になることはなさそうです。大きな声で名前を呼ぶことも必要ありません。鼎泰豊でのセバスチャン・コーはもうオシマイです。旅行ネタはたくさんあります。またの機会に。

(3)シティマラソンのセバスチャン・コー

ワタクシは以前行われていた福岡シティマラソンに第二回から連続して参加していました。第一回に参加した知り合いに「面白いから参加しぃよ!」と誘われたのがきっかけでした。最初は5kmに。あっという間に走り終えた気がして次は10kmに。これも物足りず三回目からはずっとハーフマラソンにエントリーしてきました。ワタクシはもともと長距離を走るのは好きでした。小学5年生の時、地元で開かれた10マイルロードレースの選手のスピードの速いことに感動しました。全てのランナーがあっという間に目の前を駆け抜けていったのですから。次の日曜日の朝、その頃子分にしていたNくんを連れて先週行われた10マイルロードレースのコースの一部を走ったのです。ランニングウェアなんて持ってませんので体操服でした。ロードレース当日は当然交通規制が行われ車は走っていませんが、次の日曜日には何の規制もありません。車の横を体操服を着た小学生が走ってゆくのですから運転する方からはいい迷惑だったでしょう。実際には1、2キロメートルだったのかもしれませんが、ランナーとしてのイメージを膨らました小学生のワタクシはひとりランナーズハイになっていました。付き合わされたNくんはワタクシのテンションに着いてこれず、ただ汗をかいた日曜の朝となりました。その後行われた学校の持久走大会は5年生、6年生合同で走ったのですがワタクシは5年生で1位、全体で4位となりました。そして中学生になると陸上部に入り、中長距離、駅伝に参加しました。当時の成績は大したことなく表彰されることがない4位がほとんどでした。中3の時の1500mに出た時などは一周目は余裕で応援席に手を振って1位で通過、二周目は駆け引きが始まってゆとりなく1、2、3位を行ったり来たり、三周目はラストスパートで競い負け4位でゴールするという結果でした。応援に来てくれていた父親からは「調子に乗って手なんかふるもんじゃない」とたしなめられました。
福岡市中央区に住んでいる頃は近くに大濠公園があり、ランニングの環境は整っていましたが、日常のトレーニングは仕事が終わって天神のスポーツジムに直行し、ストレッチとランニングマシンをやるのがメインでした。
福岡シティマラソンのハーフマラソンは初めの頃は福岡ドーム(現みずほPayPayドーム)をスタートして北天神で折り返し、よかトピア通りを西に走りまた折り返しドームにゴールするという素人ランナーにとっては輝かしいコースでした。参加者も増えましたが、スポンサーが絶えず入れ替わり大会の運営も時々揺らぎました。参加方式も抽選で決めたり、先着順に受け付けたり、年によって変わることがありました。ある回で、今まで数多く参加した方は遠慮していただいて初めて参加する方を優先するというとんでもない参加募集の方法が発表されました。そうなるとワタクシは参加できないことになります。何とか参加すべく考えついた悪知恵が他人になりすます方法です。そうです、シンガポールからやって来て我が家に居候しているセバスチャン・コーが申し込みすれば良いのです。手続きはスムーズに進み、参加料も納入しました。一つ問題があったのは大会前日のゼッケン、記念品等の受け取りです。ここでバレたら全ては」終わりです。集合場所の福岡ドーム入口に行くと、多くの人が次々とグッズ一式を受け取っています。ワタクシも列に並び、ややたどたどしい日本語で「ヨロシクオネガイシマス」と言って書類を渡します。すると受け付けた若い女性は「セバスチャン・コーさんですね。明日は頑張ってください。」と言ってグッズ一式を渡してくれました。「パスポートかIDカードを見せてください。」と言われたら何て言い訳しようかと考えていたのですが、何のチェックもありません。ワタクシの風貌がそれらしく見えたのでしょうか。ワタクシは「アリガトーゴザイマース」とお礼を言ってその場を去りました。大会当日もセバスチャン・コーと印字されたゼッケンを怪しげに見つめる人はいましたが、問題なく完走しました。後日地元の西日本新聞に完走者の名前が掲載されるのですが、セバスチャン・コーの名前が少し小さい活字で印刷されているのを見た時、にやっと笑ってしまいました。こんな事までして参加してきたシティマラソン。これにもいくつかのエピソードがあります。また改めて。

こうしてワタクシの人格を匿名で表現する際にセバスチャン・コーの名前を名乗るようになったのです。

いきなり番外編「遅れてやってきたコロナ騒動」

ペンネームの由来が終わりいよいよ本編に入ろうかと思っていましたが、予想もしないこの時期に我が家にコロナウイルスがやってきました。とりあえずこれを書くしかありません。
ワタクシのヨメさん、Kさんは昨年末に中国領事館に通い、今や入手困難の2年間有効のビジネスビザを獲得しました。コロナ禍以前は観光でもビジネスでも往来自由だった中国はコロナ禍終息後もビザ無しの入国を許してません。(2024年5月15日現在)そこでKさんは三年振りに中国E市にある会社関連の工場に行くために、三カ月に渡る申請書提出、面談を乗り越えビザを取りました。しかも東京の中国大使館では最長1年間しか有効でないビジネスビザが、福岡の中国領事館で2年間有効のビザを取得することができたのです。
それを使ってKさんは昨年末に中国E市に一週間ほど滞在してきました。そして今年になってE市から知人友人たちが福岡にやってきたので我が家で朝食会をし、計10名で朝から大賑わいでした。そんな交流が戻ってきたと感じるようになった3月初旬ごろまた出張に出かけました。いつものように夜になると知人友人たちが順番に夕食会を開いてくれます。帰国の前々日にLINE電話で体調が良くないと伝えてきました。(中国本土はLINEが使えませんがKさんはなぜか使えるモバイルWiFiを用意しています。)頭痛、発熱、喉の痛みなどがあるそうでした。事前に用意していた解熱剤、鎮痛剤を使ってなんとか韓国インチョン空港経由で福岡空港に帰ってきました。もしそれぞれの出入国検査でひっかかったら大変な事になったでしょう。
土曜日にかかりつけのH内科で検査するとコロナ陽性判定が出ました。特効薬ゾコーバを処方してもらい自宅での安静期間が始まりました。Kさんは二階のベッドルーム、ワタクシは一階のゲストルームで寝る事にし、シェアハウスのような安静期間を過ごしました。Kさんの症状は頭痛、発熱が続き、喉の痛みは「のどの奥に針が数十本刺さっているように感じて水を飲むのも辛い。」と言っていました。食欲もなくなり体重も減ったようですが、症状の回復とともにリセットされたようです。安静期間を終えて金曜日から出社しました。この間ワタクシ自身には何の症状も出ずに過ごしたので、何とか感染をかわすことができたと思っていました。金曜日の午前中はリバビリ施設で運動してきました。ところが仕事から帰ってきたKさんが「あなた、なんか鼻声になってない?」と言うのです。そう言われれば鼻が詰まっているような、喉が少し痛いような、、、
「大丈夫だよ。」
「いいや、怪しい。体温測って。」
測ると37.3℃。ここ数年なかった微熱です。さらに自宅に用意していた検査キットにより感染は間違いないものになりました。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?