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服を捨てる、家を捨てる(ことは、恐らくできないのだが)

※暗い話です。
※trippenの靴は買っていますが(過去記事参照)捨てる服は未だそれなりにあります…。


服を捨てている。
trippenで靴を履き、新宿伊勢丹のyourfit365で靴を買った後、服を捨てなければと思った。trippenの靴を買おうと思ったけれど今のままでは自分に購入する権利はない、だから服を捨てよう、と思ったのだった。 
(なお似たような理由でバッグも延々迷い続けていましたが、こちらは値上げに背を押され購入したことを補足しておきます。どんな素敵な靴でもバッグでも、購入する権利はお金さえあれば誰にでもあります…)

◎前夜

休職し、一人暮らしの家から実家に戻ったのは秋のことだった。
暮らしていた家と実家はそこまで離れていなかったけれど、とにかくエネルギーが不足、いや枯渇していた。ボストンバッグに最低限のものを詰めて、あとはすべて放置したまま実家に転がり込んだ。
けれども冬は寒い。ボストンバッグに詰めていた服にも限りがある。当時のわたしは体重も落ちており、常より体が冷えていた。
寒さをしのぐため実家を出る際に置いてきた古い服はもちろん、母親の服も借りた。この状況ではやむを得まいと(肌が乾燥するから切り替え始めていたはずだった)ヒートテックは追加購入したが、下半身を温める股引まで借りた。ちなみに正確には母親のものではなく、その年の春に亡くなった祖母のものだった。
寒さが酷くなるにつれ、借りる服はどんどん増えた。パジャマは新しいものがあったのでそれを貰った。
夜行登山用の裏起毛でシルエットがゆったり目のズボンに父親の大きな灰色のセーターを着て、厚手の靴下を履いた足をブーツに突っ込む。体力を落とさないよう、毎日公園まで散歩することを当時のわたしは日課にしていた(それでも太った)。一時は10分歩くだけで疲れ切っていた。
たぶん、とてもどんよりした顔をしていたと思う。頼むから新しい服を買ってくれと母親に連れていかれたユニクロでは、ヒートテックと一緒に黒いジーンズも買った。黒いダウンを着れば上から下まで真っ黒になる。

人の気配がほしかったので自分の部屋でなく、居間に近い弟の部屋で寝ていた(ので、年末年始を過ごしにやってきた弟にはとても驚かれた)。
そうこうしているうちに弱っていた胃腸はだんだんと落ち着き、落ちた体重を戻そうと必死にご飯を食べた。その後、休職以前からなんだか無理してご飯を食べているように見えたと友人から言われ、随分前から弱っていたのだなと改めて思うことになるのは余談だ。

祖母のアクアマリンの指輪を見せられたのはそんな頃のことだ。
母方の祖母と母はどちらも3月生まれで、誕生石がアクアマリンになる。もともと母は自分用にと持ち帰ってきたらしい。シンプルな銀の台座に嵌められた、アクアマリンの水色はとても綺麗だった。流行が一週回って戻ってきたのだろうか、大きな石の色味を活かそうとするデザインは最近作られたものだと言っても通りそうだ。綺麗だね、と言うと、似合うしあげるよと言われた。

指輪のサイズは合っていなかった。薬指に嵌めた指輪は気が付くといつもくるりと回って、石が正面にいない。それでも、全身どんより重たく濁っていた当時の自分の、指輪をつけた右手だけが綺麗に見えて、毎日嵌めては眺めていた。
眠る前、指輪を外してデスクライトの下に置くと石は氷のように冷たく光る。アクアマリンは昼の陽射しでなく、むしろ夜の照明のなかで美しくひかる石なのだと、後になって知った。

やがて年末になり、丸の内のホテルに母と二人で一泊しようという話になった。父親は所用で不在、かつ当時はコロナのため高級ホテルにも安く泊まれたので、何かぱーっと楽しいことをしようという話になったのだ。
夕食はホテルでとることにした。せっかくの場所だからと母親のワンピースを借り、コートを借り、ネックレスを借りた。当時は祖母の資生堂のバッグをよく持っていた。A4書類も入る、茶色のシンプルなバッグ。当時のわたしは書類が入ることをバッグの重要項目に数えていたのだ。靴をどうしたかは覚えていない。 
アンタイトルの灰色のワンピースは丈が長くラインが綺麗で、久しぶりに洒落込んだ格好をした気がした。そういえば前の職場にいた頃、職場で上司に仕事を押し付けられ泣いて翌日も職場に行けなくなったとき、半ば無理やり連れだされるように出かけてワンピースを買ったことがあった。

祖母が死んだ後、隔月で飛行機に乗って実家に行き片づけをしていた母親の体力は、心身ともに落ちていた。丸の内の大通りは人がいっぱいで、シャンパンゴールドのイルミネーションが光り有名ブランドの路面店が並ぶ。クリスマスツリーやクリスマスの飾りがあちこちにあってどこもかしこも華やかだったけれど、母は何度も息切れしてベンチに座り込んだ。私も弱っていたけれど、母も弱っていた。

泊まったホテルは部屋も良かったが朝食を部屋まで運んできてくれた。そんなことは初めてだったので、母親は感激していた。
お客様として(払ったお金の分は)丁重に扱われること、綺麗なものを見ること、質の良いものに触れること。それらが心身に効くことを母娘でしみじみ感じていたのだと思う。

年が明けて、引っ越しをした。というより、一人暮らしの家の荷物を実家に運び込んだ。置いてきた服も。
冬をしのぐためにと母親から借りた服。わたしが小学校に通っていたころ、母が着ていた服。母親が祖父母のワードローブからもらってきた服。休職前に着ていた服。
着ることのできる服は今や山ほどあった。棚の引き出しはぱんぱんだった。ずっとそうだった。 

着たい服はなかった。

そして、そのことをほとんど自覚していなかった。


◎前夜2

医師の勧めもあってリワーク施設に通うことになったので、当初年明けまでだった休職期間は夏まで延びることになった。
こうなると、さすがに少しはまともな身なりと化粧をしようという気持ちになる。久しぶりに着た休職前の服は、それなりに自分を勤め人らしく、しゃんとした顔に見せてくれた。中でもコロナ禍になって初めて通販で買った、水色で光沢のあるマキシ丈のスカートはよく履いた。(その後、飲み会で年配の男性からそのスカートを指してお姫様みたいに見えたと言われた記憶があるので、よっぽどこればかり履いていたらしい)
ユニクロで原色の緑のスカートを買ったのもたぶんこの頃だ。こちらは今でもよく履いている。

毎日通う施設の最寄り駅には大きな駅ビルがあり、通所期間も終わりに近づいたころ、その中でポール・アンド・ジョーのパウダーを買った。知り合いが持っているのを見てかわいいなあと思っていた化粧品。綺麗なコンパクト。
カウンセラーさんからは通い始めた当初は緊張で見るからにがちがちだったのが、今はよく笑ったり話したりするようになった、と言われた。

復職が目の前に見えてきた夏、ちょうどポップアップを出していたブランドの大きな指輪を買い、初めて髪にインナーカラーを入れた。憧れていた高価な香水も、値上げを理由にして買った。 
インナーカラーは自分と同じくリワーク施設に通っていた女性がしていたのを見て、初めてそういうのもあるんだと知ったものだった。 
最初、わたしはそれに気づいていなかった。その人は眼鏡をかけて痩せて小柄で、普段の話からも上司や同僚にとても神経を使っていたことが伝わってくるような人だった。なのに、肩まである普通のおとなしめのボブの下から何かの拍子に鮮やかなマゼンタがのぞいた途端、舐めるなよ、という気迫を感じて驚いた。

ぐれてやる。ぐれよう。

結構真面目にそう思っていた(この時点でまったくぐれていない)。
ここで復職してもびくびくした態度をとっていたら早かれ遅かれ、また同じことになると思った。それは嫌だった。そして、ぐれた青少年が髪を染めるのは大昔からの定番だ。
すでに休職から半年以上、復職しても職場には休職当時の上司は一人しか残っておらず、それももう直属の上司ではないからやり取りの機会が減るだろうことは知っていた。けれど同じ部屋にいるのは変わらないし、部屋は違うけれど同じオフィスにいる上司と出くわす可能性だってゼロではない。お守りはいくらでも欲しかった。いくらでも。

復職は、幸いトラブルなく進んだ。同僚は優しかった。 
冬物は相変わらず借りものばかりだったので(いつも回るお店の範囲内で)色々回った結果、ニットのロングスカートとリバーシブルの薄手ニットを買った。綺麗な色のものがほしかったけれど、世の中はどうやら結構前から、くすみ系のパステルカラーが主流のようだった。

◎服を捨てる

trippenで靴を履き、新宿伊勢丹のyourfit365で靴を買った後、服を捨てなければと思った。
冬をしのぐために借りた服。おさがりの服。サイズや着心地が合わなくて着ていない服。

おさがりは、幼い頃からあった。母の知り合いの娘さんから、母から、母の知り合いから、祖父母から。質が良いからもったいないからと、時には繕われて渡される沢山の服。幼い頃から良いものを多く与えられていた。恵まれていたのだと思う。 
実家を出る際、それなりの量の服を処分した。その頃はお下がりの服すべてが、押し付けられた服に見えていた。自分の気に入った、あるいはまあまあ許せる服だけ持って実家を出て、これからは自分の買った好きな服だけ着て暮らそうと思った。その一方でお金がない、お金がなくなるのが怖いと思っていた。

そして数年後、実家に戻った。

かつて置き去りにした服は当然そのまま残っている(それでも家族のなかで持ち物は比較的少ない方だ、と思う)。一人暮らしの家から実家に戻る際にも服はそれなりに処分したけれど、着ていない服は相変わらず、山ほどあった。 
わたしにとって運が良かったのは、この時点ですでに母が実家、祖父母の衣服の片づけを経験していたことだろう。祖母の着物を持ち帰るため、母は家族の古い服を大幅に処分していた。箪笥を一つ空け、それを着物用にするのは大変だったと思う。

祖母、母、わたし。

並べた時、服を購入する量は年代が上になるほど多くなる、と言われたことがある。服だけではない、バッグも靴もアクセサリーも、みんな。わたしが一番、服を買わない。
大店の一人娘で幼い頃から溺愛され育った祖母は、着物も洋服も山のように持っていた。成人式と弟の結婚式の時にわたしも着せられた、祖母の振袖は二枚ある。鶴が金糸で刺繍された重たい振袖が赤と白の二枚。彼女は豪華な振袖を、重ね着できるようにと二枚誂えていたのだ。曽祖父の代に開業した店を畳んだあとも何かしらの折に服や宝石を買って(もらって)いた祖母はお店の主人の妻として……といった立場上のものだけでなく、買い物が趣味というか、ストレス発散方法の一つだったのではないか、と個人的には思っている。沢山あることが豊かなことで誇らしいこと、という価値観の世代でもあっただろう。

ついでに言えば彼女は恐らく、買い物がひとつのコミュニケーション手段だったのだと思う。祖母が元気なころ、母とデパートに行くたび「好きなものを買ってあげる」と言っていたらしい。施設に行っても近いことは言っていたようだ。そして似たようなことを、わたしも母から時折言われる。

母の実家は飛行機で行く距離にある。祖母の死後、祖父母、特に祖母の衣服について、母はくりかえし古道具屋さんに選択を迫られた。山ほどある着物の中からどれを自分と自分の姉用に引き取るか。あとは全部古道具屋さんに渡して、古道具屋さんにも無理だと判断されたものはすべてごみ袋に詰めて捨てる(帰宅するタイミングはいつもごみの日に合わせていた)。飛行機のチケットは予約してあるから、保留にして明日考えることはできない。後からやっぱりやめます引き取りますとも言えない。
わたしが母の片付けに同行したのは1,2回しかないが、彼女が衣服の分類に恐ろしくエネルギーを使っているのは傍目に見ても明らかだった。どんどん憔悴して、最後にはわからない、どうすればいいのかわからないと頭を抱えてしまう。決断というのはいかなるものにせよエネルギーが必要で、だから一日にできる決断の数には上限があるのだ、と話すとひどく納得していた。
曽祖父の代からの家ということもあり、衣服だけでなく食器類に家具類と、判断すべきものは山ほどあって、それらをずっと母は整理していた。祖母がまだ家にいた頃からこっそりと、少しずつ。他に代わってくれる人はいないからと、十年近くかけて。

たくさんのお下がり。

これは似合わないから着ない、という選択はできても、じゃあこれは着ると選んだものをその後やっぱりいらないから捨てる、という選択肢をわたしは持ったことがなかった。いいものなのにもったいない、そういう声が頭の中でこだまする。
そもそも買った服を捨てる、手放す、という発想がほとんどなかった。どうしようもない汚れや傷があるならば仕方ないとあきらめることができる。だけど着ることのできる服、服としての機能を失っていない服を捨てることに罪悪感があった。その癖、それらに強い思い入れがあるわけでもなかった。
たぶん、これは服に限らなかった。 
家には沢山のものがあったので、学校行事や友人と出かける際に何かが必要だと言えばすぐ、家にあるからそれを使えばいいと言われた。例えば文房具。スポーツバッグやショルダーバッグ。登山帽。ハンドクリーム。綺麗なカード、ハンカチ、きんちゃく袋。 
多くはないお小遣いをそこに費やさないで済むのは楽な部分もあった、と思う。恐らくブランド品も多かった。 
でも、それはわたしの選んだものではなかった。母のお下がりだった。

そうして最初からたくさんの服があったから、新しく服を買う意味が分からなかった。
服を買おうと、まるで散歩に行くように母親に連れ出される。服屋で服を見る。これとこれだったらこっちが好きとは判断できる。これとこれならこっちの方が自分は似合うと判断もできる。
素敵な服、何にも冴えない自分が一発逆転できるような服が欲しいと思っていた。だけど同時に、もう箪笥はいっぱいなのに、(そしてわたしに似合う服なんて無いのに)なぜまた新しい服を買おうと母は言うのだろうと内心で思っていた。わたしにとって母の言う「好きな服買ってあげる」は、「母の気に入るようなちょうどいい価格帯とデザインの何かを欲しがって母を喜ばせてほしい」という要求に近しい何かになっていた。これもまた、服に限らない話だった気がする。

年に数回、箪笥の整理をする。衣替えをする。そのたびに、着ていなかった服が出てくる。箪笥の中はいつもぎゅうぎゅう詰めだから、押し込められたまま取り出されない服ばかりなのだ。そうして毎日、取り出しやすいところにある服ばかりを選んで着る。

春、断服式のシーズン。
noteには断服式の記事がつぎつぎアップされていた。人によっては手持ちのワードローブをチェックしたりする。夏のカットソーが何枚、スカートが何枚……などと書かれた記事を読んで驚いた。と、同時に気づいた。わたしの持っている服の数は、多いんだ!
それまで、そうはいっても自分の持っている服の量は普通だと思っていた。
何年たっても着ない服が出るのは自分の整理整頓能力やファッションセンスの問題だと思っていたし、フランス人は10着しか服を持たないとか、おしゃれについて本や記事を書いているあの人は服を厳選してこれだけしかもっていないと言われても、それはぜんぶ特別な、別世界の話だった。だけどnoteを書いているのはわたしと同じ、日本に住んでいる同年代のひと達だ。
これに気づいた途端、捨てたい服は加速度的に増えた。

箪笥の横に、もう着ない服を次々に積んでいった。
最初はごみの日に出そうとした。それもこっそり、親にはわからぬように。
真夜中、袋に詰めて玄関先に出す直前、zaraなどでも衣服の引き取りサービスがあると知りそちらに持っていくことにした。少しほっとした。

ごみの日の古着引き取りだって着れるものは再利用してくれるらしいし、似たようなものじゃない。わたしもよく出してるわよ、と。数日後、母親に言われた時は唖然とした。
いいものなのに棄てるなんてもったいないと言う母は、もうわたしの頭の中にしかいなかったのだ。

ミヒャエル・エンデの「鏡のなかの鏡」という短編集に、羽を生やした男の話が出てくる。

人々は壁に囲まれた町に住んでいる。羽を生やし、町の外へ行けるのはわずかな者だけだ。
羽を生やした者たちは最後の試練として、身体に大きな網を掛けられる。この姿で一定期間過ごしなさいというのだ。
網をまとって町を歩く男に、町の人たちが次々に声をかける。あなたは町の外へ行けるのか、おめでとう、うらやましい。ならばせめてこれだけは持って行ってくれないか、あなたなら造作もないことだろう……こころよく承諾した男の纏う網に、そうして色々なものが引っかけられていく。
試練の最後の日、人々が網に引っかけた様々な物のせいで、男の体はすっかり重くなってしまう。見上げた空の向こう、町の外へ勢いよく飛び立っていく影を見て、ようやく彼は気づく。誰の頼みも断らなければならなかった、それこそが試練だったのだ。そして自分は試練に失敗したのだ……。


服や服以外の様々なものを捨てながら、この話を何度も思い出していた。
まだこれは着るのではないか、もったいないのではないか。判断の決心が鈍るたび、両親が死んだあとのことを思った。

コロナ禍の中、物価はすでに上がり始めていた。苦しい状況になった時、実家に戻れるわたしの立場は結局のところとても恵まれていたと今でも思う。
自分は恵まれている、と幼少期からずっと思っていた。だから自分の力で得たものだけを持つか、その分人より飛び抜けた成果を上げなければいけないと思っていた。だけど受けた教育も趣味も何もかも、自分の得たものはどうしたって最初から恵まれた環境のなか得たもので、かといって飛び抜けた成果は特段上げられなかった。
わたしは恵まれている。そしてひとりで生きるには弱い。だから実家に戻った。
(だけどわたしが実家を出る際にはそれなりに色々あったし、母も私も傷ついたから今こうして戻れたところはあると思う)
(ともあれそれは別の話)

いつか両親が死んで、その時まだわたしがこの家にいたら。 
わたしは早急にこの家を整理して新しい家を確保しなければならないだろう。相続税は上がっていて、母の実家と異なり関東は不動産税も高いから、家の処分は早急にしなければならないだろう。

ねえ、その時まで、これを取っておくつもり?

わたしはわたしに尋ねる。その時のわたしはきっと、なんだってこんなものずっと取っておいたんだろうと吐き捨てながら、全部まとめて捨てるんじゃない?

祖母の服の整理をした母は、それでも自分のものを捨てる気にはなれないらしい。
実家の整理をした友人達は自分の子どもに同じ苦労をさせたくないと断捨離を始めるけれど、悲しくなるからいやなのだと。
家を出ていても、出ていなくても。いつか来るだろう実家の整理にはきっと苦労するのだろうと思う。あまり考えないようにしている。
もしかしたら、わたしも母のようにこっそり物を捨てるようになるのかもしれない。

ともあれ今は、わたしはわたしの服を捨てている。捨てるものはまだ沢山ある。
今日履いているブルーグレーのタイツも親指部分に穴が開いているので、夜には捨てる予定です。
断服式にはまだ遠い。


以下はおまけの、この2ヶ月ほどで手放した服(靴、バッグ含む)。
写真を撮り忘れたものがあと2〜3袋あります。無印のポリプロピレンの箱はふたつ空に、箪笥にはアクセサリー類も収納できるようになりました。

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