【#014】_哲学における『止揚』という概念について


こんばんは。お疲れ様です。谷﨑です。

最近ずっと雨が降っています。
地方によっては大雨が続いている地域もあるそうなので、河川の氾濫や浸水の際は、速やかに避難をするようにしてください。

本日は、ベルクソン著『哲学の方法-思想と動くものⅢ-』を読んでいました。(岩波文庫 河野与一訳 ; 昭和30年第一刷)

ということで、今回は哲学関係の投稿をしてみようと思います。

この投稿で取り扱うのは『止揚』という概念です。(独 : aufhebung)

日本語で、〝アウフヘーベン〟と呼ばれたりもします。


『止揚』とは、対立する二つの概念や勢力の、いいとこどりをしたり、(集団同士の対立の場合は)仲裁をしたり、間に入ったりすることだ、という認識を持っています。

ふたつ(時にはそれ以上の)集団間の争いの場合もあるかと思いますが、概念や主張が対立することを〝二項対立〟と呼びます。

この、矛盾・対立しているがゆえに、一見埋めることができないような両者の間の断絶を、解消することができる可能性があるのが『止揚』という概念です。

私自身、日々の生活を過ごす上で、この『止揚』という考え方は本当に大切で有効だと感じているのですが、

たしか、『止揚』は『精神現象学』の著者であることでも有名なドイツの哲学者、ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが「弁証法」の中で提唱した概念です。

「岩波哲学辞典増訂版」より、この言葉の意味を確認しておきましょう。

「止揚」とは、〝ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン。ドイツ語Aufhebenの訳語。〟

となっています。

哲学用語なのでどうしても説明が抽象的になりがちですが、

例えば、文化祭を控えたある学校のクラスの中でAとBというグループがあって、「お化け屋敷を出すか、たこ焼きの屋台を出すか」で揉めている、という状況が発生していると仮定します。

AとBのグループはちょうどクラスの人数の約半数を占めているのですが、文化祭の出し物を決定するには、7割以上の得票が必要という条件が担任の先生から出されています。

ただ、どれだけ話し合っても議論は平行線で、そうしているうちに話し合いの期限が迫ってきています。

期限を迎えると、お化け屋敷でもなく、たこ焼きでもなく、担任の先生が〝自分の趣味の観葉植物のコレクションの展示をする〟という、学生のためにある文化祭のクラスの出し物の私物化ともいえる悪だくみを企てているのですが、

この先生は校内でも実力者であるため、生徒も他の先生もこの担任の企てを止めることができません。

クラスの2大グループ、AとBのリーダーは期限までに所定の得票条件を満たすために、お互いの勢力を削りあう闘いを始めます。

投票は毎日実施され、7割の得票率を越えた時点で「出し物の決定」、期限を迎えるまでに得票条件未達成で、「ミッション失敗」となります。

AとBのグループのリーダーは、悪徳な担任の企てを阻止することができるのでしょうか。そしてこのクラスの出し物は一体、何に決まるのでしょうか!?

...という状況があったとして、

AとBのグループの行動の選択肢として以下の3点が考えられます。

①「争う」:お互いの勢力を削り合い、期限内にどちらかの出し物に決まるまで戦う

②「話し合う」:期限内にAとBで話し合い、担任の悪事を止めるためにどちらかのグループが吸収されることを決める

③「環境・状況を変える」:担任の先生が無茶な条件を要求しているので、その先生を説得する、担任を取り巻く環境を変える、等の間接的な手法を用いて自分たちの要望を叶えるための行動をとる

ここで話を元に戻すと、この文脈における『止揚』は上記の3点の選択肢、すべてに当てはまります。

『止揚』とは、二つの勢力の紛争において、その対立を解消する過程を通じて、その対立関係を統一することです。

このたとえ話だと、①争う、という選択肢をとれば2つのグループがそれぞれの目標を達成するために全力を尽くすでしょうし、②話し合い、の選択をすれば、自分たちの置かれた状況の上でクラス全体として最適な行動を採ることができるように議論し、出し物を決定するでしょう。

③の選択肢については、この文化祭の出し物を決定する期間に達成することは難しいかもしれませんが、このクラスや同じ学校の他の生徒や学生が同じ状況になり、同様の被害に遭う、ということを防ぐことが将来的にできるようになるかもしれません。

このように、ある集団内で争いが起きる状況の中、その目標達成のための過程の中で、その集団自体の団結力が高まったり、後に良い影響が残るような成果が残ることが『止揚』ということだと私は考えています。

上記の話では集団内の対立を例示しましたが、(一般的に)文系に分類される研究者の方でしたら学説や主張などの「論争」があるでしょうし、人気で勝負するような職業の方々でしたら、常にファンの気持ちを惹きつけておく普段からの不断の努力が必要とされる場合もあるかと思います。

そういった経済理論の範疇に分類される競争の中でも、この「止揚」が活用できる場合もあるのではないか、と個人的に考えています。

止揚・揚棄の特徴として、「A vs B」の状況を、「A+B=C」という統一ともいえる状態にまで段階を上げることができる(結果としてそうなる)ということがいえると思います。

競争や争いの中で個人や集団が成長する可能性というのは無限大ですし、競争原理によって淘汰されるものにはそうなるべき理由があったとして自己認識を合理化してしまうことも可能です。

ただ、現実には環境に恵まれなかった、機会に恵まれなかったが故に、自己の人生を肯定できていないような人も(社会の中には)存在していると考えています。

競争原理によって我々が受けられる恩恵はそのまま享受しながら、一般的に〝社会的弱者〟と呼ばれるような人々(個人的にはどんな人も良い意味で弱者としては定義されないとは思っていますが)が自己実現のために努力し、

目標を成し遂げるために、自分の選択に"夢中・熱中・集中"できるような社会の環境を整えること、そのためにこの『止揚』の概念は積極的に活用されるべきだと思っています。

途中から「機会の平等 (Equality of oppotunity) 」の話になってしまいましたが、この議論の関連する範囲の中に、ベーシックインカム(Universal basic income)などの議題もあるのではないかと思っています。

この一連のテーマについては、現在個人的に調査・考察を加えながら何かしら提案できるようなものはないかと、アイデアを練っている段階なので、近いうちに(その一部でも)note上で投稿ができるかもしれません。

「機会の平等」と「結果の平等」の議論については、平等にしようとしている事象や対象の環境・背景などの定義やその事実の正確な認識が困難である、という点が制度化による問題の解決などの最も大きな問題点になっているのではないかと考えています。

上記の「二項対立」についても、今後noteで投稿していく予定ですので、ご確認のほどよろしくお願いいたします。












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