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社会正義を貫き、子どもや若者をフォローする。ワーコラマガジン〜Seeders(種をまく人々)〜#3寺川勲雄さん

「ワークライフ・コラボ」は、ワークライフバランスで愛媛を元気にしようという想いから、2009年に設立したNPO法人です。私たちの役割は、誰もが自分らしい働き方・生き方ができるよう「人と企業と地域をつなぐこと」。そのために、自らがシーダー(種をまく人)となって、さまざまな方々と一緒に活動を続けています。

そんなシーダーを紹介する「ワーコラマガジン〜Seeders(種をまく人々)〜」。3本目の記事は、松山市で住宅リフォームなどを手がける株式会社栗田工務店代表取締役会長の寺川勲雄さん。2022年4月には、ワーコラと協働し、地域の小学生のスペース「くりた子どもひみつきち by まちのがっこう」を立ち上げました。現在、栗田工務店のほか、不動産事業のみのり商会、住宅新築事業のみのりホーム、介護事業のやわらぎの4社が属する「みのりグループ」の代表も務める寺川さんに、くりた子どもひみつきちをつくったわけ、これまでの歩みと想いを聞きました。

見守っている大人がちゃんといると知ってほしい。

ーー「くりた子どもひみつきち by まちのがっこう」は、毎週木曜日の15時から19時まで開設。松山市生石地区近隣の小学生なら誰でも利用でき、支援スタッフや学生ボランティアに見守られながら自由に過ごせるスペースです。つくったきっかけは?

新聞を読んでいたら、日本の子どもの7人に1人が貧困で充分な食事が取れないと報道されていました。そういう子がいるなら、やわらぎが運営するグループホームいくしの厨房施設で食事を提供できないかと考えたのが発端です。生石地区は住宅密集地なので、そういう子もいるのではと思ったし、子どもたちのプライドを傷つけないように、グループホームでお年寄りの話し相手のお手伝いをしたお礼として、食事を提供できればと思ったんです。

近隣小学校の校長先生に電話してみると、「うちの学校にはそんな子はいません」との返答でした。児童民生委員にも電話してみましたが、要領を得ない返事でした。でも、貧困というのは表に現れにくいもので、統計的にはいるはずだと思いました。チラシを配るわけにもいかないし、さぁどうしようと悩んでいるうちに、娘から、まちのがっこうをしているワーコラの堀田さんの名前を聞きました。堀田さんにお会いしてやりたいことを話しているうちに、「食事を提供することを目的とせず、子どもたちの居場所を目的とするスペースをつくろう」という話になったんです。子どもたちが集まれる秘密基地のような場所をつくっておけば、そのうち表には出てこなかった貧困の子も出てくるかもしれない。そういう子がいれば、それとなく助けてあげられるのではと考えました。

「くりた子どもひみつきち」は2022年4月、グループホームいくしの一角にオープン。
学校帰りにそのまま来る子も。宿題をしたらおやつを食べて、集まった子ども同士で遊ぶ。
七夕短冊づくり、スイカ割り、ハロウィンなど季節のイベントも開催。

ーー立ち上げから半年が経ちます。

当初の理想とは違いますが、ワーコラの運営で子どもたちを19時まで預かってもらえるなら、子どもたちの居場所ができていいと思います。今来ている子は幸せそうな子ばかりです。それでも、夫婦共働きで寂しい思いをしている子など「何か来たい理由がある子」が来ていることに意味があります。貧困の救済というより、予防的な活動として、連携して子どもたちを見守る。そういう役割を果たす「くりた子どもひみつきち」であってほしいと思います。私も時折、飼っているヤギを連れて子どもたちに会いに行っています。

ヤギの名前は「トカラ宮二世殿下」。「殿下が来たー!」と子どもたちは餌をあげて、ふれあう。

ーーなぜ、子どもの貧困に関心を持ったのでしょう?

子どもが好きというだけです。新聞やテレビで、貧困でご飯もろくに食べられない子がいるのを見ると、たまらない気持ちになります。自分も昔はそうでしたが、松山の繁華街に行って飲み明かす大人がたくさんいる一方で、ご飯もろくに食べられない子がいる社会ってどうなんだろうと。義務感ではなく「何かしたい」と思うんです。

私が一番関心を持っているのは、恵まれない子どもなんです。児童養護施設の愛媛慈恵会の子どもたちとは、30年近く前から関わっていて、昔は双海の地引網に連れて行ったり、今は焼肉パーティーに行ったり、ぬいぐるみやクリスマスケーキを贈ったりしています。慈恵会の子どもたちは、親と生活できなくて、小さい頃からお母さんに抱かれて眠ることもできないんです。だからせめて、見守っている大人がちゃんといるということを知ってくれたらいいなと思います。

今、慈恵会の子どもたちが5人ほどで住む戸建住宅を、栗田工務店で建築しています。地鎮祭をして、10月に棟上げ工事をし、工事現場に来た子どもたちにはお祝いのお菓子を50人分配りました。慈恵会の施設で暮らす子どもたちは隣近所との交流があまりありません。自立して住宅で暮らす慈恵会の子どもたちが、近隣住民とコミュニケーションをとれたり、もっと社会とつながれたりするといいですよね。


働きながら知識と経験を積んだ学生時代。

ーーどんな学生でしたか?

新居浜で生まれ育ち、中学時代は、生徒会長になって「わしのいう通りにしたら間違いない」と偉そうにしていました。将来は政治家になろうと思っていたのに、中学2年のとき、親父が商売に失敗して「政治家になる夢はもうダメや。高校もいけんな」と思いました。下にまだ3人弟がいましたからね。それで、中学卒業と同時に昼は仕事をして、夜は定時制の高校に通いました。当時は、一般企業で月給5000円の時代。なるべくたくさん家にお金を入れたかったので、給料から500円だけもらって残りは家に入れていました。

給料のいいほうへ職を転々とし、16歳のときには自動三輪の免許を取ってトラックの運転手や土木作業員の仕事もしました。汗びっしょりになって、夜は泥まみれのまま学校で勉強をしました。思い返しても、この頃の経験は良かったですね。偉そうにしていた中学生のまま高校や大学に進学していたら、鼻持ちならない人間になっていたかもしれません(笑)。

大学に行くつもりはなかったけど、高校時代に先生に質問したとき、その答えに納得できなくて、大学の先生ならどんな答えが聞けるんだろうと、大学に行く気になりました。家計に負担をかけないよう、アルバイトの多い大阪の大学を受験し、生まれて初めての大阪でバイトをしながら学んだ4年間でした。

ーー就職活動はどのように?

新居浜に帰り、土木作業員でもするつもりでした。でも、考えてみたら、4年間社会に何の貢献もせずに勉強させてもらったから、世の中の役に立つことをしたいと考えるようになり、先生になろうと思いました。高校時代はいろいろと人生に悩んだので、そういう子どもたちに人生の門を開いてやりたいと思ったんです。中学と高校の教員免許をとったものの、当時はベビーブームが終わった時代。愛媛県も他県も教員採用はほぼゼロというので、大阪で大手製パン会社に就職しました。


仕事は、人間としての尊厳をかけてやるもの。

ーー入社してからどんな仕事を?

ゼミで会計学を専攻していたので、経理の仕事をしていました。最初は、自分が会社の役に立っているのか分からず、不安になることもありました。トラックの運転手や土木作業員の仕事は、石をこれぐらい運んだら給料はだいたいこれぐらいと分かって胸を張って給料をもらえたのに、サラリーマンは自分が会社にどう評価され、貢献しているか分からなくて。

だけど、経理という仕事は、会社のいろんなことがわかって面白い。それに、経理課長は優秀な人で、経理部長、営業部長、事業本部長と出世していきました。私はその部長付だったので、この人のために、会社のためにと思って仕事をしました。「仕事は、人間としての尊厳をかけてやるものだ」というのが私の信条なんです。違うと思ったことは「そりゃあかんのちゃいますか」「哲学がないと思いますよ」とズケズケ言い、部長にゴマをすることは一切しませんでした。

部長からは信頼されていたと思います。その人が社長室長になることが決まったとき、「寺川くん、付いてきてくれるか」と言ってもらいましたが、「自分は現場に行かせてください」と答えました。部長が社長室というポジションに昇進するこのあたりで会社を辞めるつもりでした。その人に辞表を出すのが忍びなくてそう言ったんです。工場勤務を命ずるという辞令をもらい、1日出勤して、辞表を出しました。

ーーそれからどんな道のりを?

大阪で不動産開発会社に就職しました。田中角栄首相の「日本列島改造論」が不動産ブームに火をつけた時代だったんです。でも、やがてバブルが来て、政府が金融機関に通達した不動産業向け融資の規制をきっかけに、不動産業者はもうお手上げに。私は長男だったこともあり、故郷の新居浜へ帰りました。

最初は「グリーンライフ」という名前で、四国の庭木を大阪方面に売る仕事を始めました。従業員を一人雇い、庭木を買ってトラックに積んで、植木市に行って。31歳になると、結婚を機にハウスメーカーの営業職に就きました。そのうち、営業だけじゃなく総務も見てほしいと言われ、会社を全般的に任されるようになりました。朝から晩まで働き、休みは盆正月ぐらい。とにかく仕事に打ち込みました。だけど、会社は大きな赤字を抱えていたんです。このままだと親会社に飲み込まれて自分たちの会社じゃなくなると思い、みんなを集めて「この赤字をみんなで解消しよう。期日は3年後の昭和54年7月」と決め、『547作戦』と銘打ちました。「期日までにゼロにできなかったらわしは会社を辞める」とはっぱもかけて頑張りましたが、結局、赤字は解消せず、宣言通りに会社を辞めました。


仕事を通じて社会正義をやる。

ーーそれからどうしたのですか。

会社の本社が松山に移ったのを機に、私は家族と一緒に松山に出て来たばかりでした。土地勘はないし、身寄りもないし、金もない。それで、お金がなくても始められる不動産屋をやることにしたんです。それが「みのり商会」です。昭和54年、星岡の借家で独りで始めました。当時の不動産屋といったら、欲をかいて誠実にお客さんと向き合わない悪い人がたくさんいたんです。だから、自分は不動産業界の中で社会正義をする。それが土地勘も身寄りも金もない自分が生きる道だと思ったんです。うちで不動産を買ってもらったら、百貨店で買ってもらうのと同じで、お客さんに将来何があってもきちっと対応して解決する。そういう姿勢でずっとやってきました。

ーー「みのりホーム」を始めたのはいつですか?

みのり商会を始めた翌年です。建築の知識もあったから、建築もやろうと思ったんです。そのうち「シックハウス」が社会問題となりました。家を建てるときに使う建材に含まれる化学物質が、人体に悪い影響を与えるというものです。北里大学の先生の調査で、建材で使われる「ホルムアルデヒド」が空気中に溶け出し、それを吸うことで倦怠感や頭痛などが起こることがわかりました。先生の講演を聞きに東京にも行きましたね。

家という一生に一回の大きな買い物をして、そのせいで病気になるなんてことがあってはいけない。それで、天然素材を使った無添加住宅を造ることに切り替えたんです。当時は無添加住宅なんてめずらしいものでした。しかも、無添加住宅は一般の住宅より坪単価は高くなるのに変化が見えるものではありません。坪単価を聞いて「高い」と言って帰ってしまうお客さんがたくさんいました。家は売れないし、会社はもう潰れるんじゃないかと何度も思いました。

ーーそれでも続けられたのは?

その人が病気になるかもしれないとわかって儲けても、ちっともうれしくないからです。だったら、お客さんに説明して、理解してもらうように努力しよう。それで需要がないなら仕方ないと思いました。無添加住宅の販売を続けるうちに、国が化学物質が出ない建材を利用するようにと行政指導をし、建材メーカーも建築会社もシックハウス対策を始めるようになりました。

ーー平成16年に介護事業(やわらぎ)を始めた経緯は?

ある家を買い取るとき、そこの奥さんに障がいのある息子さんがいました。頚椎損傷で首から下が動かせないから、小柄な奥さんが大きな息子さんの世話をしていて、少しでも楽な生活をさせてあげたいと思ったんです。それで、あちこち勉強に行って、バリアフリーの住宅展示場を建てました。当時はまだバリアフリーという言葉が浸透していなかったので、住宅展示場でバリアフリーの講演をしようと思い、聖カタリナの先生に講演を頼みました。そのつながりで北欧にバリアフリーの視察に行く機会にも恵まれて。

行ってみるとそこは介護施設で、おじいちゃんおばあちゃんが綺麗な服を着て、みんな楽しそうにしていたんです。あのころ、日本の介護施設といえば、病院の大部屋みたいなもので、カーテンで仕切って寝巻き姿で生活しているのが一般的。プライバシーもないような状況でした。でも、北欧は独立した部屋があって、人としての尊厳を大切にされて生活しているのを見て「えらい違いやな」と思ったんです。

それから、一緒に勉強会をしていた光宗内科胃腸科医院が松山初のグループホームをやるというので、建築をうちで請け負いました。その後、光宗さんが病院を辞めるとき、グループホームを建物ごと引き取って介護事業を始めたんです。現在は、東温市に1カ所、松山市に3カ所の事業所を運営しています。

ーーやわらぎが運営するグループホームいくしの一角に「くりた子どもひみつきち」があります。「くりた」にした理由は?

改装したのが栗田工務店の費用だからです。介護は国に決められた報酬をもらうだけなので、やわらぎは儲からないですけど、栗田工務店は売上を伸ばせますから(笑)。栗田工務店という名前もまた、あの地域で知ってもらえたらうれしいですしね。

くりた子どもひみつきちのオープニングでは、ブックマルシェを実施。近隣の人やInstagramを見た人からたくさんの本をもらい、栗田工務店が本棚を取り付けた。

栗田工務店も実は、引き取った会社なんです。50年近く前に現相談役の栗田さんが創業して、奥さんが事務員で。後継者がいないから辞めるという話になったとき、ご夫婦二人とも人間がよくて、お客さんもいるしと思い、平成21年に栗田の名前のまま、社員も給料も条件もそっくりそのまま引き継ぎました。そのほうがそれまでのお客さんも安心すると思ったんです。

43年前、独りではじめたみのりグループも、みのり商会、みのりホーム、やわらぎ、栗田工務店と大きくなりました。別に会社を大きくしようという気はありません。ご縁があってたまたまこうなっただけなんです。「仕事を通じて社会正義をやる」という延長線でやってきました。

昼食会を兼ねたみのりグループの会議


生き方スタイリストとして、かっこよく生きる。

ーー経営者として大切にしていることは?

儲けよう儲けようと考えないことですね。仕事というのは、自分がどうやって社会に役立つかなんです。自分の会社のことであると同時に、人間としての生き方が問われます。私はずんぐりむっくりで足も短いけど、生き方のスタイリストなんです。金儲けのために人を泣かしたり、だましたり、そんなかっこ悪い生き方はしたくない。ロマンを求めて、かっこよく生きると決めています。

ーーこれから取り組みたいことは?

もう若くないから、終活しないといけなくてね(笑)。栗田工務店のブログに私の想いを綴っていくつもりです。私の考え方やみのりグループの基本的理念を、後を頑張ってもらう社員に理解してもらって長く繋いでもらいたいし、社員だけじゃなくてみんなに幸せな人生を歩んでもらいたいから。

栗田工務店の月1回の営業ミーティング。営業活動にノルマはなく、月間目標も各個人が決め、会社はそれを尊重している

最近、絵本作家の農中優太くんと知り合ったのを機に、自分史絵本「君に繋ぐ想い」を作ったのもそういう想いから。私の遺言書みたいなものなんです。

それから、農中くんもですが、最近、20代30代のフリーランスの若者と知り合う機会が増えました。私の話を聞いた子が、面白いと行って友達に紹介して次々にやってくるんです。キャンプインストラクターでSNSのフォロワー数が1万人超えの彼は、東温市にグランピング施設をつくろうとしています。グランピングなんて彼に聞いて初めて知るぐらいでしたが、真面目で見込みがある青年と思ったので、グランピングの用地を取得して、具体的活動を始めたらどうかと提案したんです。用地に目星をつけて事業計画書を作成するよう伝えると、若い感覚で良いものができてきました。彼はまだ若くて金もないので、私が東温市の600坪ぐらいの土地を買って貸すことにし、銀行にも同行し、支店長に「若者を育てる視点から融資をよろしく」とお願いしました。グランピング施設ができたら、松山の子どもたちがもっと自然に触れ合えると思うんです。施設は来年8月にオープン予定です。

他にも、最新の情報は東京から発信されるけど、愛媛からも音楽や映像など幅広い分野で発信したいと活動している若者もいます。自分はもう若くないけど、そういう若者たちを応援してあげられたら、松山でまた楽しい事ができるかもしれない。一人ではできないことも、力を貸し合えばきっとできる。「最近の若いもんは」と年寄りはよくいうけれど、話を聞いてみると、なかなかどうして、しっかりした子がたくさんいます。いつも感心させられますよ。年とともに活力のなくなる我々年寄りは、志のある若者のフォローをすべきだと思っています。

子どもたちや若者たちの人生は、まだまだ長い。そんな彼らの人生が幸せなものであるよう、フォローしたい。それこそ、私がこだわる「かっこいい生き方」でもあります。

(取材・文/高橋陽子)

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