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やさしいひと

ふすまから糸電話が伸びてきている。
最後に部屋を後にした時、しまい忘れてしまったのだろうか。それすらよくは覚えていない。ただ、疲れた。もう何もしたくはないと思うくらいには疲れてしまった。

「頑張りすぎたって仕方がないさ」と、のらりくらりとした言葉を使ったとて行動が伴わなければ戯言だ。水面下には収まりきらない苦しそうにもがく姿を見せられてしまっては、怖くなるに決まっているのに。自分の言動をすべて正当化するつもりもないけれど、わたしは逃げ出すことにした。

何になりたいのかもわからず、覚悟もないまま決めてしまった勤め先。どうせわたしはいてもいなくても変わらないだろう。何者にもなりたくないくせに、きっと誰かが何者かに仕立て上げてくれるのだろうと勝手に期待する人間を置いていたって意味がないだろうから。

「それじゃあこの紐を先生のまねをしてここに貼り付けましょう!」

声が聞こえた気がした。ぼんやりとしていたわたしをはっとさせ、手元の糸電話を見る。正体不明の糸電話。家で作ったことも、使った記憶もない。ただ、幼いころに受話器の片側を両手で掴んでいたようなあいまいな記憶ならあった。それでも持ちかえったかはわからない。そしてなにより、この糸電話から聞こえた気のする声は、どこから来たものであろうか。

「誰かいるの?」

こわかったので、念のためたずねる。返事はない。物音もしない。その静けさが余計にこわかったのだけど、勢い任せにふすまを開けた。こざっぱりとしてものが少ない。ただ、糸電話の受話器をつなげる白い紐が「思い出」と書かれた段ボールから伸びていることがわかった。

ふすまを閉じて、糸電話の受話器を耳に近づける。

「もしもし」

幼くあどけない声がする。さっきほど驚きはしなかったけれど、気持ちがざわつく。それでも受話器を離そうとは思わなかった。

「はい、みんな。大人になったみんなに、お話してみましょうね」

女性の声がした。一番初めに聞こえた声だ。騒がしい子供の声がいり乱される中に、再び幼い声が響く。
「わたしは、やさしいひとになれますか。やさしいひとになりたいです」

憶えている。間違えるはずもない。幼いころのわたしの声だった。

「ねえ、いまのわたしはやさしいと思う?」

どうしてたずねたのかはわからない。幼いわたしの問いにわたしは答えることができるけど、わたしの問いに幼いわたしは答えられようもなかったというのに。幼いわたしに何を期待したのか、自分でもわからなかった。

「せんせえ。なんかある」

幼いわたしが叫ぶと、ふとなんだか眠くなる。そう感じたことも束の間、抗うこともできずにわたしは眠りに落ちていった。いまのわたしは、やさしいひとだろうか。

目が覚めると、すでに夕方になっていた。ぼんやりとした頭はまだうまくは働いていなけれど、少しだけやさしい夢を見ていた気がした。


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