インスタント・善
傘ぽんの使い方のコツがようやく分かった。
ただ適当に傘を差し込むのではなく、角度を調整して傘袋へと入れようと意識しながら使うと、上手く袋に入る。
それがコツらしい。
このプロセスを経れば、雨水にも流せない生き恥をさらさずに済む傾向にあるということだ。
だが、未だに傘から袋が外れることはある。
この前もセルフレジで会計をしていたら、外れてしまっていた。
あろうことか、その時の私は袋が外れてしまったことも気づいていない。
会計を終えてレジを背にして、店から立ち去ろうとしたとき、店員さんが私が経済を働いていた4番レジへと向かっていることに気づいた。
その理由に気づくまでには、時間はかからなかった。
何故ならば、ふと自分の右手を見たからだ。
なんと、傘ぽんで包まれていたはずの蝙蝠傘が、あられもない姿を晒している。
コンマ3秒でセルフレジを見てみれば、水を貯めた細長い袋が転がっているではないか。
踵を返して、店員さんの手に渡るより前にビニールを取り戻そうとしたがもう遅い。
時給以上に優秀に働いている店員さんが「困った客が落としていったよ……、雨の日あるあるだわ」という面持ちをしつつ手にとっていた。
ここで「店員が捨ててくれるからいっか~~~」とアホ面下げて知らんぷりして帰宅してもいい。
だが、気づいてしまった以上は人間として「すいません、私が落としました」と言うべきであろう。
もちろん、私も平身低頭・腰が痛む姿勢で
「すいません、私が落とした、ごめんなさい」と字余り5・7・5を詠んで傘ぽんを回収した上で、傘ぽんを捨てて帰路へとつくハメへとなった。
だが、帰路につく際、私は無礼にも「良いことをしたな」という感情に苛まれた。
不思議な話である。
「スーパーの好意で雨滴に濡れた傘を包むためのビニール袋を提供され、傘を包んだはいいものの、包んだ袋を落としてしまい、店員さんに拾っていただいた袋を回収した。」
これを換言すれば、人からモノを頂く(マイナス)に加えて、頂いたものを落とす(マイナス)を経た上で、粗末に扱ったモノを謝罪して回収する(プラマイゼロ)という行程を経たのだ。
もはや悪人として弾圧されても文句は言えない行いだ。
しかし、事実にも関わらず、私は落とした傘ぽん袋を拾った時に
「あぁ、私は善を働いたな」「善人としての素質があるな」と思ってしまったのである。
全くもって道理に合っていない。
自分が働いた努力に対して、得られる善が多すぎはしないか。
インスタント麺より手軽に作れる善。社会的にはトータルでマイナスなのに私だけが手軽に善をいいのだろうか。
そんな疑問を馳せつつ、今日の日記を終えようか。
フタコブラクダのコブを同意の上で上下左右計13個にした後に、黄色いおべべを無理やり着せる活動がメインです。最近の悩みは鳥取県の県境を超えられないこと。