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木箱記者の韓国事件簿 第20回 ピマッコルの思い出

 かつて鍾路で一杯やろうという時は「ピマッコル」が定番だった。ピマッコルとは鍾路の大通りの1本北側の細い路地の名前で、ここには飲み屋をはじめとする飲食店が並んでいた。メニューは焼き魚やパジョン、マッコリなど庶民的なものが多く、昔ながらの風情を色濃く残していたことから、日本からの来客を案内すると喜ばれたりしたものだ。

 ピマッコルは朝鮮時代に作られ、鍾路1街から鍾路6街まで続いていたが、2000年代初めには鍾路1街から鍾路3街までの区間が一部残っているだけだった。私が韓国に来た当初は会社が鍾路にあったこともあり、ピマッコルの中でも教保文庫光化門店前から第一銀行本店(現スタンダートチャータード銀行本店)までの清進洞で飲むことが多かった。ピンデトックの名店として知られる「ヨルチャチプ」や、元気なおばちゃんが店を切り盛りしていた「チョンニャンチプ」あたりでよく飲み、店の人にも顔を覚えられる程度には通っていた。ほかの店も多く訪ねたが、店の名前はすでに記憶にない。いずれも安くてうまい庶民的なお店だった。

 韓国に赴任する前に出張でソウルに来た際に、韓国人支社長に連れられてやってきた飲み屋もピマッコルにあった。韓国語ができる日本人ということでお店のおばちゃんもいろいろサービスしてくれ盛り上がったのだが、おばちゃんはおもむろに紙の束を差し出してきた。日本の演歌の歌詞カードをコピーしたものだった。日本の歌が好きでよく聞くのだが日本語の歌詞が読めないのでハングルで読み方を書いてくれというのだ。その場で作業するには量が多く、持ち帰って作業することにしたのだが、安請け合いしたおかげで数日間の出張期間中は夕方に仕事が終わるとホテルの部屋で作業に追われるといういらぬ苦労を抱えることになった。滞在最終日に店に届けに行くとおばちゃんは喜んでくれ、「バイト代に一杯ごちそうするから飲んでいって」と誘われたのだが、この日は先約があり「きょうは無理なのでうちの支社長が来たらサービスしてあげてください」とだけ頼んで店を後にした。

 2004年ごろのことだったか、ピマッコルにも再開発の波が押し寄せてきた。いくつかのお店が立ち退きはじめたころに、友人と食事のためにピマッコルにある焼き肉店に入った。遅い時間だったこともありお客もおらず、店のおばちゃんも手持ちぶさただったのか、私たちが焼き肉をつついているテーブルの脇に座り、ピマッコルの現状について語り始めた。「この店も立ち退くんですか?」と尋ねると、「立ち退けって言われてるけれど、これまでずっとここで商売してきたんだ。立ち退いたりなんて絶対にしないよ」と力強く答えてくれた。酔っ払ったせいもあり「こんなおばちゃんがいれば心強い。ピマッコルも安泰だ」と楽しく過ごしたのだが、それから数日後に店の前を通ったらすでに店は跡形もなかった。立ち退かないと言っていたはずなのに目の前には更地が広がっている。キツネかタヌキに化かされたとしか思えないできごとだった。まさか泥水に泥団子でも食わされたのではあるまい。木の葉のお金で支払っておけばよかったか。

 ピマッコルにあったお店のいくつかは再開発で誕生したビルの中に移転し存続している。ただやはりあの雰囲気があってこそのピマッコルで、きれいなビルの中で同じ店の看板を掲げて同じ味だと言われてもどうにもなじめない。きれいなビルになってからはピマッコルに行くこともなくなってしまった。

 ソウル歴史博物館にはピマッコルにあった飲み屋の「チョンイルチプ」が、店内の什器から壁の落書きに至るまでまるごと移設して展示されている。営業はしていないのは残念だが、当時の雰囲気をいまに伝える貴重な資料だ。いつか勝手にマッコリでも持ち込んでみたいところだが、見つかったらつまみ出されることだろう。どうせつまみ出すならパジョンをつまみに出してくれたらうれしいのだが。

初出:The Daily Korea News 2016年11月28日号 note掲載に当たり加筆・修正しました。

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