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木箱記者の韓国事件簿 第4回 韓流を作り損ねた男

 韓国に来て転職を繰り返しているというとあまりいい印象を持たれないが、基本的には同じような業界の中で転職しているのでそれなりのキャリアとスキルは身につけているつもりだ。だが過去に1度だけまったく畑違いの業種で働いたことがある。芸能事務所だ。

 その芸能事務所は、俳優・アーティストのマネージメントをはじめ、映画・テレビ番組の配給、外国人アーティストの公演企画など幅広く手がけていた。私がその会社に入ったのは2001年3月のこと。日本関係の事業を始めるに当たり日本人社員が必要とのことで、その会社にいた知人に誘われて入社した。与えられたミッションは日本からテレビ番組などのコンテンツを購入して韓国のテレビ局に販売することと、韓国のコンテンツを日本のテレビ局に販売するというものだった。

 当時韓国では第3次まで日本文化開放が進んでおり、日本のコンテンツ需要が高まるとみられていた。ドラマの開放はされていなかったが、ドキュメンタリー番組などの輸入は可能になっており、日本の良質なコンテンツを輸入すべく日本のテレビ局などとコンタクトを取ったが、残念ながらいずれも話はまとまらなかった。

 日本からの買い付けがうまくいかないのならば韓国ドラマの売り込みだ。当時の日本ではまだ韓国ドラマブームは起きていなかった。私が韓国に来る直前に住んでいた福岡県でローカル局のTVQ九州放送が深夜に韓国ドラマを放映していた程度だ。その記憶があったので、まずは地方局に片っ端から資料を送り、担当者に売り込みの電話をかけた。しかしどこも反応は鈍かった。そこでターゲットを在京キー局に切り替えた。資料を送付し担当者に電話をかけ、東京に出張して直接売り込みにも行った。各局の担当者の中にはソウル支局での勤務経験があったり、大学時代に韓国に留学したという人もおり、そういう人たちは個人的に関心を示してくれたが、やはりコンテンツ購入となると難色を示した。

 当時の日本では、NHKのドラマ「もう一度キス」(2001年1月)で主演したユンソナが話題となり、フジテレビが「チョナン・カン」の放映を開始(2001年4月)するなど、韓国への関心が高まりつつある時期だった。それでもまだ韓国ドラマは海のものとも山のものともつかぬもので、担当者が二の足を踏むのも仕方のないことだった。

 特に問題になったのは価格面だった。当時会った在京キー局の担当者には「日本からは安くコンテンツを買い叩こうとする割に韓国のコンテンツ価格は相当にふっかけてくる」と指摘された。会社としては日本のコンテンツはさらにマージンを上乗せして韓国のテレビ局に販売しなくてはならず、安く買わないと韓国で売れなくなってしまう。韓国ドラマについては最初から安値で売ってしまえばそれが相場となり、今後大幅な価格上昇を見込めなくなるという事情があった。ただ日本側の意見ももっともなもので個人的には心苦しかった。

 それなりに奮闘はしてみたものの韓国ドラマの売り込みに手応えは得られなかった。もう少し押せばなんとかなったかもしれなかったが、残念ながら私が事情により会社を去ることになってしまった。

 それから1年ほど過ぎた2002年10月、日本のキー局としては初めての韓国の連続ドラマとなる「イヴのすべて」が放映され、2003年4月からはNHK-BS2で「冬のソナタ」が始まった。その後の韓国ドラマブームはみなさんもご存知の通りだ。これらの韓国ドラマがどのような経緯で日本に売り込まれたのかは知るよしもないが、韓流前夜の奮闘が実を結んでいれば自分が韓国ドラマブームの立役者になっていたかもしれないと思うといまでも少々残念な気がする。ちなみに当時勤めていた会社は韓国ドラマブームのころにはすでに廃業していたようだ。ドラマの売り込みに成功していればその会社ももう少し延命していたかもしれない。

初出:The Daily Korea News 2016年7月25日号 note掲載に当たり加筆・修正しました。


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