木箱記者の韓国事件簿 第11回 韓流前の職安通り(2)

 職安通りの南側は歌舞伎町だ。この辺りは韓国料理店のほか、韓国クラブやスナックが密集している。韓国料理店や韓国スーパーに比べるとだれでも気軽に行ける雰囲気ではないが、97年ごろにこの韓国クラブ街のお店を片っ端から回ったことがある。客として行ったのなら大したものだが、実際は当時の仕事だった国際電話カードの営業のためだった。昼間に行っても店にはだれもいないので、仕込みが始まる夕方以降に訪問しなくてはならない。この界隈には1棟が上から下まですべて韓国クラブやスナック、韓国料理店というビルも多く、短時間に多くの店を回れる利点はあったのだが、営業成績はあまり芳しくなく、そろそろ仕事を辞めた方がいいのかと考え始めることになった。

 そんな時にふらりと営業に入った韓国スナックで、アルバイトのユヌという留学生と知り合った。同い年と言うこともありすぐに打ち解けて仲良くなり、仕事の合間に客として顔を出し、酒を飲んで韓国歌謡のカラオケを歌ったりしながら客の韓国人とも仲良くなった。仕事を続けるかどうか悩んでいる時期でもあり、店で飲むのはそんなストレス発散にもちょうど良かった。そのうちほぼ毎日仕事帰りに寄り道するようになり、まかないの食事まで食べ店の常連というより店のスタッフの一員のような存在となっていった。ただで食事をいただくのは申し訳なく、接客など店の手伝いもするようになったため他のお客からは本当にスタッフと思われていたようだ。やはりここでも韓国語を話す日本人ということがおもしろがられ、あちこちのテーブルからお呼びがかかり、一緒にカラオケを歌ったりお酒をごちそうになったりした。ほとんどお金を使わずに韓国スナックで遊んでいたようなものだ。

 ある日、ユヌに仕事を辞めようかと思っていると打ち明けると、彼は別の韓国スナックの経営者の男性を紹介してくれた。ユヌは「お前は韓国語ができて韓国人客受けがいいから韓国スナックの店長に向いているはずだ」と言い、ちょうど店長候補を探しているという経営者に話をつけてくれたのだ。いちおう面接のようなことをして、話もまとまりかけたのだが、なんとなくそのままうやむやになり立ち消えとなってしまった。もし本当に店長になっていたとしたらどんなことになっていただろうか。

 ユヌは韓国人の友達をたくさん紹介してくれた。ほとんどが歌舞伎町界隈で働く韓国人留学生だったことから、いくつかの店には客として通った。ただ、当時ビール小瓶が1本1千円、辛ラーメンにネギと玉子を追加して調理したものも1千円と、この界隈にある韓国系の店は決して安くはなく、客として行くにはやや負担が大きかった。国際電話の仕事を辞めてからは以前留学資金を稼ぐために働いていた現場仕事に戻り日銭が入ったことから通い続けることはできたが、ほどなくして不景気のせいか現場仕事の話も少なくなり、歌舞伎町で遊べるような経済的余裕はなくなっていった。仲良くしていたユヌもいつの間にか店を辞めてしまい音信不通となってしまった。彼を介して知り合った韓国人留学生も1人2人と帰国し、いつしか歌舞伎町に知り合いはほとんどいなくなり、歌舞伎町通いも1年ほどで卒業することになった。

 「眠らない街」と称され東京でも有数の歓楽街である歌舞伎町は、怪しい店も多く少々近寄りがたい雰囲気があるが、この街で出会った韓国人は気のいい人ばかりだった。いまはもうこの辺りを訪れても韓国クラブやスナックには行かないが、ずらりと並んだ韓国語の看板を見かけると当時のことが懐かしく思い出される。

初出:The Daily Korea News 2016年9月19日号 note掲載に当たり加筆・修正しました。

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