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優しくなりたい-キッド-

映画「恋愛適齢期」の中で、主人公のジャック・ニコルソンは、自分自身を知るために過去の恋人を順々にたずねていく。
その多くはひどい別れ方をした女性たちで、彼の顔を見るなり、怒りに震えて物が飛んできたりする。

「君は頭が良くて、ちょっとおかしくて、かわいい人だ。とても強いところもあるし、弱いところもある。でも、優しくはないよね。

いや、本当は優しいんだけれど、それが表面的な部分に出てこないタイプだよね。
それが悪いっていうんじゃないよ。
優しくなんかなくったっていいんだけど、優しいともっといいかもしれない、っていうだけ」

別れた人に久しぶりに連絡をとってたずねると、そう言われた。
ちなみに、私から振ったんであって、振られた理由を聞いたんじゃない。
私はどんな人間かと訊いただけ。

そうか。そうだよね。
そんな気がする。
「優しくない」なんて言われてショックだけど、でも、確かにそうかもしれない。

本当は優しくしたいんだけど、きっとそれがうまく表現できないんだね。
私の名前には「優しい」という字があるのに、どうして優しくできないんだろう。

「どう書くんですか?」
「優れるという字です」

名前の漢字を聞かれて、私はちょっと躊躇してから、そう答える。

なぜかというと、自分のことを「優しい」ということが恥ずかしいから。
むしろ「優れる」という方が、照れ隠しになる。

「自分のことを優れると言うなんて図々しいな」
と親しい人に笑われたこともあるけど、でも、「優しい」の方がずっと、私にとっては図々しい。

たぶん、私の中では、「優れる」よりも「優しい」の方が価値のある言葉で、その方が大切なことだと認識されているのだと思う。
けれど、だからこそ胸を張って、「私の名前は優しいと書きます」なんて言えない。
それは、おこがましいことのように感じる。

優しいひとになりたい。
優しくなりたい。

どうやったらなれるだろう。

おしつけがましくない、優しさ。
相手を窮屈にさせない、優しさ。

身近な人は知っているだろうけれど、私はある面でとても不器用な人間だ。
けれど、それを変えていかなくちゃ、本当に「なりたい私」にはなれないと思う。

幼いころ、「英語がペラペラの私」というのを思い描いて、必ずそうなるものだと思っていたけれど、実際には、ちっともペラペラになんてなってない。
長いこと英会話を習ったのに、いまだに仕事で使う自信はない。

それと同じように、「優しい私」というのを思い描いて、そうなりたいと思ったのに、私はちっとも優しくない。

映画「キッド」で、ブルース・ウィリス扮する主人公ラスは40歳間近。
8歳の誕生日直前の自分自身に出逢い、こんな言葉を浴びせられる。
「パイロットじゃなくて、犬も家族もいない!僕の夢がひとつも実現されていない!」

なんでこんなになっちゃったんだ。なんでこんなになっちゃったんだ。
僕の未来を返せ。僕の未来を返せ。

そう言って幼いラスは泣く。

幼いころの私の夢は、どこへ行ったのだろう?
幼いころの私の夢は、もう潰えたのだろうか?

今は、何かを得るということに対してはあまり興味がない。
欲しい洋服も手に入るし、行きたい場所にいつだって旅行できる。

でも、そんなことよりも、私自身がどうありたかったのかということを、幼いころの私を振り返り、本当に、心の底から省みるのです。
両親がどんな想いで、その名をつけたかを、深く深く考えるのです。
私にとって大切な人やものに対して、どう接しなければならないかを、強く強く思い直すのです。

胸を張って私の名を紹介できるように。
幼い私の涙を拭いてあげられるように。

キッド The Kid(2000年・米)
監督:ジョン・タートルトーブ
出演:ブルース・ウィリス、スペンサー・ブレスリン、エミリー・モーティマー他

■2005/12/20投稿の記事
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