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休日の出来事ー釣りバカ日誌ー

私たちは、東海道線を西へ、小一時間向かった。
列車のシートに背をもたせ、他愛ないおしゃべりを続けていても、不思議だけれど海原の風景が目に飛び込んだ一瞬に会話が止む。

その光景は、いっぺんで人を黙らせる。
窓は開いていないのに、潮風が吹いてくるような錯覚もする。
説得力のある、開放感。

その日の天気も好かった。

熱海駅から先、伊豆半島に差し掛かると、列車は各駅停車になる。
二駅乗って、網代という無人駅に降り立つと、改札の外には、想像以上に小さな漁村の様相が広がっていた。

駅の近くに立っていた面積だけ巨大で実に大雑把な描画の地図看板を眺め、午後2時までにたどり着きたい場所を確認する。

「歩けるんじゃない?」
「ほんとに?」
「だいたいの方角があってれば、歩けるよ」

私はひどい方向音痴だ。
自分で自分の進行方向を常に疑うのが正しいと承知している。
「たぶんこっちだろう」と思ったら、正反対の方向に進んでいることなど茶飯事だ。
初めての場所には随分余裕をもって出かけても、遅刻ぎりぎりになってしまう。
だから私は、黙って彼に全権委譲する。

時刻はちょうど12時過ぎで、昼食をとって目的地へ向かえば、仮に少々時間がかかってもちょうどよさそうな按配だ。
私たちはひとまず、扉が半ば錆びついたコインロッカーに荷物をねじ込んで、海が見えるところまで歩くことにした。
海のそばにはきっと魚の美味しいお店があるよ、という安直なアイデアひとつでお腹がすいてくる。

軒先に干物を並べた魚屋。
駐車したスクーターの脇をすり抜けていく三毛猫。
日本中どこで出逢っても、ほっとする風情の朱色のポスト。
玄関先の立ち話。
帽子の庇を透けた空。
高く上った初夏らしき陽射し。

3分も歩けば、海の所在が明らかになった。
のっぺりとイカが張り付いた天日干しのベニヤ板の陰に、魚を食べさせてくれるらしい定食屋がいくつも並ぶ。
海沿いの国道を、物色するように歩いていくと程なく漁港にさしかかった。

「釣掘だって」

波止場の脇の開け放した倉庫で、何組かの家族連れやカップルがクーラーボックスの魚を発泡スチロールのケースに移しかえている。
自分たちが釣った魚を自宅まで持って帰るのだろう。
倉庫の壁の目立つところに、大きく「筏釣り」と記された看板があって、どうやら海上釣堀をやっているらしい。

それを見るなり、彼はその響きに興味津々になり、簡易テーブルを置いただけの受付に近づいていって、料金やらシステムを確認し始めた。
1人30分で2500円、1時間なら5000円。
釣った魚をバーベキューにするなら、バーベキューセットが2000円。

「どうする?」
「温泉の予約は2時だけど・・・、釣りやるなら今すぐ始めて急いで焼いて食べないとね」

私たちはその日、網代の高台にある旅館に立ち寄り湯を予約していて、それが午後2時の約束だった。
釣りが終わってタクシーに乗って向うことを考えれば、結構ギリギリの時間になりそうだ。
しかも、この釣堀は15時までの営業なので、温泉から戻って釣りをするのも難しそうだった。
それでも彼はどうやら釣りがものすごくしたそうな様子で、せっかく海まで来たのだし、「釣りやろうよ」と促した。

ボートに乗って海の上に浮かんだ筏まで行く。
四角いパネルをはめ込んだように、筏と網を張った養殖いけすが連結している。
筏は穏やかな波に揺られて、とっぷりとっぷり体も揺れる。
五月の太陽が、その日一番高いところから照りつけている。
パーカーのジッパーを一番上まで上げて、帽子を前方に引っ張って鼻まで顔を隠した。

私は、釣りをほとんどしたことがない。
2年前のGWに丹沢でキャンプがてら川釣りをしたが、他のみんなは釣れたのに、私だけは一匹も釣れなかった。
所詮アマゴの放流釣り、うようよとばかり魚は目に見えていたにも関わらずだ。
私にはまったく才能がなさそうなので、今回もまず釣れないと踏もう。
最初からそう思う方が、気が楽だ。

釣堀のおじさんが針に餌をつけてくれて、ここに垂らすんだよと丁寧に場所を教えてくれる。
「このまま、このままでいいから」
そう言われて反論する根拠も資格もないので、言われるがまま、そこに棒立ちし、先端が見えるか見えないかまで海水に沈んだ釣り糸の先に視線を凝らした。

彼の方はというと張り切った様子で、いけすの中を覗き込みながら、あっちでもないこっちでもないと自分なりのベストスポットを探している。
目が真剣だ。

ほんとに釣れるのかなあ?
お昼ご飯、食べられるのかなあ?
そういえばバーベキューセット代をもう払った気がするけど、もしも一匹も連れなかったら返金してくれるのかなあ。

過去の苦い経験から消極的な発想が頭を占めるわけだが、そのとき竿に手ごたえがあった。
「あ、引いてる!」

そもそもリールをどっちに回すんだっけと動揺してしまうくらい初心者の私。
どうしようと思っていると、さっきのおじさんが駆け寄ってきた。
「まだ上げなくていいから。まずは合わせるだけ」

「合わせる」という意味が分からない。
何に何を合わせるのかよく分からないので、しゃにむにリールを回す。
ひとまず慎重なふりをして、ゆっくりと。

やがて海面に尾ビレをくねらせるアジの姿が現れた。
ピタピタと激しく全身を振りながら、しぶきを飛ばして無駄な抵抗をしている。
おじさんは哀れなアジを掴まえて針をはずし、クーラーボックスの氷にそれを放った。

アジだ。アジが釣れた。
このいけすにおいては、最も凡庸で小ぶりな魚だが、それでも確かに一匹魚が釣れた。
私はもうそれだけで十分やり遂げた気分になった。
2500円でアジ一匹はやたら高いが、もう後は釣れなくたって機嫌よく帰れる。

私に先を越されたので、彼は一層躍起になって何度もポイントを変えていた。
私は再び、おじさんの指示どおり、糸を垂らして棒立ちする。

それからようやく彼にもアジがかかり、その直後、再び私の糸が引いてもう一匹アジが釣れた。
一匹目の感動はどこへやら、「またアジかよ」と思う。
「もう二匹も釣ったの?」と彼がやっかみながらクーラーボックスに三匹目のアジを入れる。
このいけす、ほんとに他の魚いるの?

いや、いるいる。
海面の見えるところまで、大きなタイが姿を見せている。

でも私には無理だなあ。
それ以上大きな獲物を釣っても、動揺して絶対逃しちゃう。
タイの力に負けて海に落ちるかもしれないし。くわばら、くわばら。

そんなことを思っている最中、彼の針に大物の手ごたえがあった。
「これタイだよ、タイ!」
弾んだ声で彼は言い、竿を大きくしならせて、海中に引きこむ力と格闘する。

ピンと張った糸。
先端がくくくと水平方向に暴れる。

そうして遂に、彼はタイを釣った。
小さな小さなエビ(オキアミ)で、立派なタイを釣り上げた。
アジとは比べものにならないほど、勢いよく筏の上で跳ねる。

「写真撮ってあげるよ」
満足げな彼は、上あごに鉤針を食い込ませたままのタイを脇腹のあたりに掲げた。

それから彼は調子づき、しばらくしてまたタイを引っ掛けた。
このときは釣り上げる前に逃げられてしまったが、本人曰く「コツを憶えた」らしい。

「簡単だな」と確信した口調の彼は、さっきまでとはどうも釣りをする体勢からして違う。
やたら竿を短く構え、海面に覆い被さるみたいに前のめりになっている。
縁日で水風船釣りでもするみたいな調子だ。
ハナからタイしか狙っていないらしい。
私が三度アジを釣ると、「また雑魚釣ったの?」と得意のいじめっ子気質が発露して実に上機嫌だ。

すっかり釣りに没頭していたが、ふと思い立って時計を見ると、1時半を過ぎている。
30分のコースだったはずだが、釣堀のおじさんは時間だよと言う気配もない。
「もう行かなくちゃ」と声をかけると、もはや釣りバカと化した彼は「そっか」と生返事でさらに釣り糸に集中する始末だ。

ひとまず釣堀のおじさんに引き揚げたい旨を伝え、迎えのボートが波止場から筏に到着するまで、私は帰り支度を始めた。
そして、そうしている間にも彼は最後の大物を釣り上げた。
二匹目のタイを釣ったのだ。

「これ、さっき逃がしたヤツだよ」
嬉々としながら暴れるタイを筏の板に押しつけて、固く引っかかった針をはずず。
クーラーボックスはタイ2匹とアジ4匹でいっぱいになった。

彼は筏釣りがいたく気に入ったらしく、帰り道も、その夜も、翌日になっても、何度も釣りの話をしていた。
半ば偶然に立ち寄ったアクティビティだったけれど、彼がなんだか嬉しそうなので、私もなんだか嬉しかった。

今や寅さんに変わって国民的コメディ映画シリーズとなった「釣りバカ日誌」。
釣りと家族を愛するサラリーマン、ハマちゃんが主人公で、毎度お騒がせと厚い人情を振りまく。

釣りというのは、原始的な遊びだ。
海や川と対峙する、一番身近な「狩り」である。
もちろん自然の釣りと釣堀では大きく違うだろうが、ただ海があり空があれば、体の空気を入れ替えるのにそれで十分なことのように思えた。

釣りバカ日誌(1988年・日)
監督:栗山富夫
出演:西田敏行、三國連太郎、石田えり他

■2006/5/18投稿の記事
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