見出し画像

意思ある結び目-秘密と嘘-

上の弟が生まれた日の記憶はないが、下の弟が生まれた日のことはしっかり憶えている。
私にはまだ子どもがいないので、「誰かが生まれた日」を実感として知っているのは、たった一人の誕生日だけだ。

しんちゃんは、三人兄弟の末っ子として、同時に私たち家族の一番の新参者として、昭和54年3月8日に生まれた。

その日、自宅には母とひいおばあちゃんと私がいた。
祖母と上の弟がいたかどうかは憶えていないが、父はたぶん仕事でいなかった。
私は3歳だった。

母が産気づいて、ひいおばあちゃんに車を呼んでくれと言ったら、ひいおばあちゃんはちょうどそのときうどんをこしらえて食べるところで、「ちょっと待ってよ。これ食べてからな」と呑気に応えた。
そのことを、母がいまだに恨めしそうに話す。

どうやって車を呼んだのか、それがどんな車だったのか、救急車かタクシーか、父か叔父の運転する車か、そんなことは忘れてしまったが、ともかく私たちは病院に向かった。
薄暗い廊下のベンチに、ひいおばあちゃんと並んで座って、私は「何か」を待っていた。
「何か」が何なのか、これから二人目の弟が生まれようとしているのだという意識は、全くなかったように思う。
病院の空気はなんだか陰気で、私はひどく退屈だった。
退屈すぎたので露骨に疲れたふうして、家に連れて帰ってもらった。

しんちゃんが生まれ、一番最初に対面したとき、その赤い頬に自分の頬をよせて、私は「さくらんぼうのにおいがする」と言った。
確かに自分がそう言った瞬間を憶えている。

「さくらんぼうのにおい」と言ったのがどんな匂いだったか、今思い返そうとしているが、それは甘酸っぱい感じだったようにも思えるし、「さくらもち」みたいな甘ったるく微かなものだったようにも思える。
そのどっちだったかは分からないが、しんちゃんは、花か果物のようないいにおいがした。

上の弟のときは姉の自覚がゼロだったが、しんちゃんのときは、小さな自分よりもっと小さな赤ちゃんに母性のようなものを感じた。
たまらなくかわいいしんちゃんを、いつでもどこでも追いかけて、頬を押しつけたり、抱きしめたりする。

ハイハイをするしんちゃん、よちよち歩きを始めたしんちゃん。
しんちゃんは、皆に愛されているという自信に満ち、いつもその大きな瞳を輝かせ、屈託なく笑った。
あの子の目は、こちらを見つめ返すことよりも、どこか遠くを見据えることが多い気がした。

しんちゃんは、小さい頃から痩せっぽっちだった。
そのくせ顔だけはまるまるとしていて、首から下がか細かった。
だからちょっとアンバランスな、頭でっかちの子どもだった。

私たち姉弟が大好きだったひいおばあちゃんも、特にしんちゃんのことをかわいがっていた。
私と上の弟のことは呼びつけなのに、しんちゃんだけは「しんちゃん」と呼んでいた。
お菓子もしんちゃんにだけこっそりあげることがあって、明らかにひいきしていた。
しんちゃんは自分で「僕だけひいおばあちゃんにもらったー」と自慢するので、そのひいきはいっつもバレバレで、私たちは「おばあちゃん、うちらにもちょうだいな-」と後からねだりに行って煙たがられた。

しんちゃんも、ひいおばあちゃんが好きだった。
学校から帰ると「おばあちゃん!おばあちゃん!」と寄っていって甘え、何十ぺんめのくだらない話も毎度ツッコミを入れながら聴き、ケタケタと笑った。
ひいおばあちゃんは調子に乗って、延々と老人ギャグを披露していた。

あるとき、母がしんちゃんの秘密ノートを見つけた。
そのノートには、「今日、お兄ちゃんがつねった。怒り度3」「今日、お母さんがひいおばあちゃんにあほと言った。怒り度4」などと書いてあって、日常の中で腹が立ったことをコツコツつけているようだった。

しんちゃんはおかしなことを考える子どもだったが、随分大きくなってもそれはあまり変わらなかった。

やたらお笑い芸人に詳しくて独特の「お笑い論」を語り、もう何年もナインティナインと明石家さんまの出演するテレビ番組を全て撮りためている。
別に得意だったわけでもないのにスキーがしたいからという理由で、青森の大学を受験した。(そして落ちた)
オオクワガタを繁殖させて一儲けするとか言い出して、友人たちと原チャリを飛ばして真夜中に山へ入り、明け方、一匹も採れずにウルシに負けて帰ってきたこともある。

また、しんちゃんは独特の頑固さを発揮する、ちょっとアンバランスな努力家でもある。

なかなかきわどい成績だったので、何十校も大学を受験することになり、その費用を返金すると受験前に親に約束したのだが、唯一1校だけ合格し、その半年後、実際に50万円を耳を揃えて返金した。
そのお金は、時給数百円のファーストフードやスーパーのバイトばかり週に4日ほどやって、ひたすらコツコツ貯めたものだった。

不器用で頑固で、愛想を振りまくのが苦手なしんちゃんは、文句も言わず黙々と働く。
ただ、黙々と働き、ときどき「なあなあ、お姉ちゃん、ええこと考えたで」と荒唐無稽な一発逆転の儲け話を提案してきたりする。

そんなしんちゃんが、先週、家出した。

詳細ないきさつはよく分からないが、どうやら父と仕事の進め方を巡って大喧嘩をしたらしい。
いつもの調子で一方的に父が怒り、近頃多忙でストレスをためこんできたしんちゃんが、とうとう爆発してぶち切れ、実家を出て行ったということなのだが、その際も、普段使っているマイカーは会社名義だからという理由で、それには乗らずに徒歩で家を出た。
そのやり方に相変わらずの頑固さを見出す。

着替えを少し鞄につめただけで出て行った。
連絡は一切なく、こちらから連絡しても携帯の電源は切られて音信不通。

27にもなって子どもじみていると言えば、確かにそうだ。
人の迷惑も顧みないでと言えば、それも確かにそうだ。
それでも、彼は彼なりの考えや主張があるんだろう。

家族は皆心配したが、最終的にはちょうど一週間でようやく連絡があり、戻ることになった。
この期間、彼は一体どこで何をしていたのか、ひとまず胸をなでおろす。

改めて一個人としての弟を考える。
そして、この状況において、兄弟姉妹という関係について振り返る。

奇妙なのは、弟の人生は私とは別のところで、平行して進んでいっているということだ。
当たり前すぎることなのだが、直感的に不思議なのだ。

一緒に暮らしていた頃はほとんど同一線上にあった気がするものが、今は異なる流れの中で、異なる意思を持って、時折、己を顕示するかのような事件などを起こしつつ進んでいる。
今回の家出で、しんちゃんにはしんちゃんの人生があるのだな、と当然のことを思い起こすのだ。

だけれど、他人じゃない。
ルーツは同じで、その支流として私たちは生きている。

先週、「秘密と嘘」という映画を観た。
この心あたたまる群像劇的作品には、一度も結婚せぬまま父親の定かでない子どもを二人も生んだ愚かな姉と、堅実で誠実なその弟が出てくる。
二人の両親は、もうずっと昔に亡くなっている。

彼らの人生は別々だが、肝心なところには堅い結び目がある。
配偶者、子ども、親、兄弟姉妹。
結び目は、両腕を広げた周囲にひとつずつ増える。
あらゆる結び目は、あらゆる瞬間に中心に在る。

親の人生の初めの20数年を私は知らないし、おそらく私の人生の終わりの20数年を親は知らないだろう。
年の近い弟というのは、彼が生まれた日に立ち会って、順調にいけば、何年かの後先の差で死んでいく。
私の最期か弟の最期を、いずれかが必ず見届けることになる。

私はさくらんぼうのにおいがしたしんちゃんを知っている。
目を閉じれば、幼い頃のいたずらな瞳と紅潮した頬と、すばしこく動き回る姿がありありと浮かぶ。
改めて大人になったしんちゃんを見ると、顔立ちも背格好ももちろん昔とは大きく違うのに、私の中では過去と混濁してしまう。

内弁慶でお笑い好きで変わり者だが努力家のしんちゃんが好きだし、自慢だ。

それだけで、十分だと思う。
親心になるなら心配なことは尽きることがないが、それでも彼は生きている。

今日も、力強く生きている。

秘密と嘘 Secrets and Lies(1966年・英)
監督:マイク・リー
出演:レンダ・ブレッシン、ティモシー・スポール、フィリス・ローガン他

■2006/8/14投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししていきます。

サポートをいただけるご厚意に感謝します!