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嫌いな顔の気になる存在ー陰日向に咲くー

劇団ひとりに関して言うと、これは私が生理的に一番嫌いなタイプの顔をしている。
男のくせに色白で、太っているというほどでないが微妙にぽっちゃりとしていて、睫毛が長くて、心なし艶めいた唇をしている。
視線がなんだか泣き出しそうで、眉毛は少したれている。
直視すると気持ちが悪い。

好きと嫌いにラインを引いて、ラインに沿って嫌い側に幅は狭いけれどとてつもなく深い溝があり、その溝にうまいことはまり込んだみたいな感じであの顔が嫌い。
どこかのパーツが少しでも違っていれば問題はなく、少し嫌いかニュートラルか、場合によっては少し好きくらいにもなりえたのに、私の嫌いのツボを絶妙についてしまった、それが劇団ひとり。

しかし、こんなに嫌いな顔をしていると、逆に気になってしまう。

最近は彼のメディアへの露出は多く、毎日のように嫌いな顔に出くわすことになる。
そして何度も確認する。
「わたし、この人、嫌い」

もちろん、顔が嫌いなだけで人格まで嫌いなのかどうかはよく分からない。
分からないというか本当は判断がつかないはずだが、芸能人というのは、顔だけで人に好かれる分、顔だけで人に嫌われることもある。
実際に私が彼を嫌っていても、彼は私を知っているわけではなく、なんの実害も彼には及ばないはずなので、極端に「嫌い」と言い切っても罰は当たらないだろう。

劇団ひとりの顔を見て思い出すのは、小学校4年生のとき同じクラスだったS君のことだ。
S君は男のくせに色白で、睫毛が長くて、心なし艶めいた唇をしていた。
動作が少々大げさで、独特のセンスの持ち主だった。
つまり、彼は彼なりにこれは面白いと思っているらしいことをオーバーアクションぎみに周囲に披露するのだが、いまいち皆に理解されず、小学生特有の残酷な仕打ちで奇異の目を向けられては孤独に立たされる、そんな役回りの男の子だった。

そしてその自らの孤独を、自嘲してはまた、彼はひとりで喜劇を演じた。
誰に理解されずとも、笑えないギャグを繰り返す、ちょっと可哀想な感じの男の子だった。

そんなS君を、もともとは特に嫌いなわけではなかった。
けれどある日をきっかけに、私は彼が大嫌いになった。

放課後、教室に近い外廊下の手洗い場でS君は絵の具のついたパレットを洗っていた。
図工の時間に描き終わらなかった水彩画を完成させるために、何人もの子どもが居残っていたのだ。

私は忘れ物の給食袋を取りに行くために、教室へ向かっていた。
一度家に帰って自転車に乗り、友達の亜紀ちゃんと学校の運動場で待ち合わせて遊びに行くつもりだった。
亜紀ちゃんに「ちょっと待ってて」と言い残し、自転車をとめて教室へと駆けていった私の前に、洗い場にたむろったクラスメイトたちが見えた。

唐突に、S君が左利きの手に筆を握り、頭上に大きく掲げながら叫んだ。
何人もの同級生がその声を聞いていた。

私はびっくりしてその場に立ち止まり、くるりと背中を向けて運動場へダッシュした。
忘れ物の給食袋は取りに行かずじまいで、自転車の脇で待っていた亜紀ちゃんが「どないしたん?」と尋ねても、「ええねん。行こ」と憮然と言いのけてサドルにまたがった。

私はわけもわからず混乱して、ひどく怒っていた。
あんなにたくさんの人がいる前で、あんなに大きなすっとんきょうな声で、突然愛の告白だなんて。

それは、私にとって人生初の経験だった。
小学4年生のことだから、同じクラスに好きな男の子くらいはいたけど、けれど誰かに公衆の面前で告白を受けるだなんて、想像もよらなかった。
好きな男の子が自分を好きでいてくれたらいいなと思うくせに、好きな男の子以外から自分が好きになられるなんていうのも、一度も考えたことがなかった。
子どもというのは、どこまでも利己的な存在である。

これっぽっちも嬉しくなんてなかった。
凄まじい嫌悪が背中を走り、顔がこわばって、怒りが湧いた。
Sなんて、大っ嫌いだ。

当時、S君は教室で隣の席に座っていた。
翌日から私は、彼を完全に無視することに決め、一切視線を合わさず、口も利かなかった。
私が落とした消しゴムをS君が拾ってくれたときも、全身で嫌悪感を突きつけるように、拾ってくれたのがさも迷惑だと態度で示した。

友達には「わたし、S君って嫌い」と言いふらした。
「S君って嫌い」というよりは、「私が嫌いなのはS君」という狙い定めた攻撃だ。

好きな男の子のことを噂することはあっても、嫌いな男の子のことを噂することは稀だろう。
それでも幼すぎた私は、S君を極端なほど嫌った。
彼が悲しそうにため息をつき、眉をハの字にたれさせるのを見ると、余計にこの子が嫌いだと思った。
その瞳が澄んでいてそして微妙に潤んでいるのが、もっともっと嫌だった。

中学1年のとき、S君と再び同じクラスになり、また席が近くなった。
最初は嫌いなヤツと席が近くて最悪だと思ったけれど、そのうち差し障りのない話から打ち解けて特に嫌いなわけではなくなった。
彼の大げさな動作や、突拍子もないギャグは相変わらずで皆から浮いていることも変わらなかったけれど、それもまた笑えるような気がしてきた。
S君はまさか、あんなにひどい仕打ちをした私のことを依然として好きだったわけではないと思うが、それでも敵意を見せることもなく気さくに接してくれて、私はそれまでのことを申し訳ないと思うようになった。
彼の方が随分、大人だったと思う。

劇団ひとりという芸名は、一人の人間の中にたくさんのキャラクターが住んでいて、自在にそれらが現れて喜劇を演じることができる、つまりひとりで劇団を形成しているという由来かららしい。
確かに、劇団ひとりの演じるキャラクターというのは、一つ一つ立っている。
たぶん彼は、ものすごく頭がよくて想像力と表現力が豊かなのだ。

嫌いな顔の気になる芸人が大真面目に小説を書いたというので、そしてそれがまたなかなかの出来で、ベストセラーにまでなっているというので、やっぱりなんだか気になって、会社帰りに本を買ってしまった。

「陰日向に咲く」

これが、ああやられたという面白さだった。
金曜に買ったが2日もかからず読みきった。
短編集だが、途切れることなく先を読み続けたくなる。

文体は嫌味がなく、軽妙で面白い。
表現もなかなかのものだし、そして何より人物描写がずば抜けている。

著者が様々なキャラクターの居合わせる「劇団ひとり」であるように、この短編集にもよくぞというほどリアリティに満ちた様々なキャラクターが居合わせている。
一人の人間の想像力から生まれたにしては、奥行きというか幅が極めて大きい。

こんなに馬鹿でくだらなくてどうしようもない人間を、本当に馬鹿でくだらなくどうしようもなく描けることは、一種の感動だ。
多種多様なだめ人間、その惨めさ、哀しさ、可笑しさ、かわいらしさに注がれる深い愛。
それぞれのキャラクターになりきって書いたと著者は言うが、こういうものすごいだめ人間になりきれる人間の幅がすごいと思うのだ。

どのキャラクターも極端だが、決して現実感がないわけでない。
むしろ、実際はこのとおりなんだと思う。
確かに世の中にはこういう人たちがいるのだ。
外から見るともう少しまともに見えたり、あるいはそれなりに理屈があるように見えても、本当のところはこれくらい徹底的に愚かな回路をたどっている。
愚かさが各自の中でもっともらしく正当化される。
そうして回路が回る。

同時に、外から見ると常識の域を超えていて、突然変異の欠陥品みたいに社会からつまはじきにされるような存在に思えても、本当のところは誰しも変わらぬささやかな幸せやぬくもりを求め、できれば自分を良き者としたいと願っている。
それが不器用に空回りしてしまうだけ。
そうして回路が回る。

装丁の帯に大げさに書かれているように泣けたりなんかはしないけれど、もっといろんな人の話を訊きたいと思わせる。
自分からかけ離れているようで似たような人、近そうに見えるがそうでない人、色んな人の話を訊かせて欲しいと思わせる。

また、S君のことを思い出した。


陰日向に咲く(2006年)
著者:劇団ひとり
出版:幻冬舎

■2006/4/23投稿の記事
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