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人の命の宿るもの-21g-

F先生の授業で心に残ったこと。
「どこまでが自分か」

手や足や額や腹部が自分の一部であることは誰も否定しない。
その部位を指して、我と呼ぶ。

では、髪の毛や眉毛や爪は?
それもたぶん、自分の一部。

じゃあ、毎日かけているメガネは?コンタクトレンズは?
補聴器は?ピアスは?
自分自身の肌と密着しているけれど、それは自分?

ここまでは、おそらく誰でもある程度答えられる。

では・・・

髪の毛が自分の一部だとすると、それを切ったら、切り落とされた髪は自分?
爪を切ったら、切られた爪は自分?

腕を切り落としたら、その腕は自分?
首をちょんぎったら、その首は自分?

首が自分?残った首のない体が自分?

じゃあ、身体を左右対称になるように頭から真っ二つに切ったら、どっちが自分?
右が自分?左が自分?

どっちも自分?どっちもって何?

さっきまで自分の一部なのに、切り落とされたら自分ではなくなるの?
自分とは何?
意識とは何?
命とは何?

疑問ばかりで堂々巡りだ。

たとえば、映画「21g」のように、他人の心臓を移植して生きながらえた人には、二人の人間が宿っていると言っても、解釈によっては間違いではない。
ものを言わなくても、思考を働かさなくても、そこに別人の一部が人生を継続している、とも考えられる。

女性は突然の事故で夫と、二人の娘を失った。
夫の心臓は、病の男に移植される。
そして、結果、男は人生を取り戻す。

夫と娘を殺したのは、前科のある男。
自らの罪の意識を救うため、熱心に信仰にすがっていた。
しかし、結果、彼は神に愛されることなく再び罪を犯してしまう。

既に死んだ人間の、心臓によって翻弄されていく3人。
意志のないはずのものが、あたかも糸を引くように。

残されてこびりついた、絶望と憎悪。
止まらずに加速する、恐怖と震え。

映画は、時間軸をあえて壊した構造で、この手のものは最近よく見る気がする。
けれど冒頭から結末を予感させる表現は、うまいことに、クライマックスに近づいていく緊張感を高めることに成功している。
そしてまた、始まりと終わりの差を強く印象付けることにもなるだろう。

そう、始まりと終わり、動いたのはごくささやかなこと。
様々な出来事が起きたように思えて、結論としてもたらされたのは、ほんの小さな変化だった。

意志のないはずの存在が、残したかったものがなんだったか。
ささやかな変化、ささやかな救いに、大きな愛を感じないではいられない。

「21g」。
人は死んだとき、21gだけ軽くなると言う。

なぜなのか、何の重さなのか、それは想像に任せるしかない。

人の命とは、何に宿るのか。
そんなことを思い巡らす作品だった。

そして、人生は続く。

21g (2003年・米)
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニュリトゥ
出演:ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベルチオ・デル・トロ他

■2005/5/3投稿の記事
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