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日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一(連載一覧)

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ナイアガラレーベルの日本コロムビア移籍に尽力し、1975年から最初の2年間、コロムビア時代の大滝詠一を担当したディレクター谷川恰(つとむ)氏の物語です。
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日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一

谷ヤンの名前を聞いたことがありますか? 谷川 恰(たにかわ つとむ)。 1970年代、フォーク、ロックなど新たな音楽の潮流が生まれ、大手レコード会社も歌謡曲からロックに目を向けはじめた頃の、日本コロムビアのディレクターです。 ナイアガラレーベルの日本コロムビア移籍に尽力し、1975年から2年間コロムビア時代の大滝詠一を担当しました。 谷川氏の名前は『ゴー!ゴー!ナイアガラ』などのライナーノーツに小さくクレジットされているものの、その人物像や大滝詠一との関わり合いはあま

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」第1回 プロローグ

舞台袖の谷ヤン 「アー・ユー・レディ?」  大滝詠一の声が増上寺山門近くのABC会館のホール全体に響き渡る。  冬に戻ったような冷たい小雨が降りしきる3月終わりの月曜日。会場には立ち見も出て、外の寒さをまるで感じさせない熱気に満ち溢れてる。 「ウェーイ」  観客の拍手と歓声がホール内に響く。大滝はエルヴィス・プレスリーを模した格好で、ギターを手にしながら、「ワン・ツー、ワン・ツー・スリー」と軽快にカウントを取り、曲に入った。 「ワン・フォー・ザ・マネー♪」 <ブルー・ス

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第2回 コロムビアレコード移籍

1975年夏、谷川は東京の赤坂にある日本コロムビアの本社で大滝詠一の訪問を待った。初顔合わせである。11月、ナイアガラは日本コロムビアと契約を行う。 意気投合 「大滝君、このあと、ちょっと外で飯でも食うか?」 3年前にスチューダー製A80・16トラック・テープ・レコーダが導入された日本コロムビアの第1スタジオを一通り案内した後、谷川は、頃合いを見計らって声をかけ、コロムビア通り沿いにあるレストランに誘った。大滝詠一との顔合わせが始まった。  谷川恰(たにかわ つとむ)

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第3回 『ナイアガラ・トライアングル』レコーディング

コロムビア移籍の最初の仕事『ナイアガラ・トライアングル』のレコーディングは、1975年11月7日に開始された。大滝、伊藤銀次、山下達郎のレコーディングは分業で行われた。大滝のパートは「FUSSA STRUT Part-I」「夜明け前の浜辺」「ナイアガラ音頭」の3曲である。その中でも大滝が熱を入れていたのは「ナイアガラ音頭」だった。  谷川は連日連夜、福生まで通い、大滝のアイデアを実現していった。 福生通いの日々 今日も福生から会社への直行である。大滝詠一と毎日アイディア論を

<一言コラム>豊川稲荷 (第3回『ナイアガラ・トライアングル』レコーディング関連)

1970年代、日本コロムビアの本社は港区赤坂にありました。豊川稲荷は、本社前薬研坂の先、青山通り沿いにあります。 谷川氏によると、日本コロムビアでは、新年にバスを借り上げて、豊川稲荷まで初詣に行くのが恒例行事だったそうです。 アーテイストが着物で勢ぞろいして、神主からの商売繁盛の祈祷を受ける。儀式が終わると、アーティストはバスに乗り込み、帰っていったそうです。 その後、会社の部長クラスは、神社の向かいにある「とらや」の羊羹を持って、タクシーに乗り込み、専属作家や作詞家の

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第4回「ゴー・ゴー・ナイアガラ」放送終了危機

大滝から「ゴー・ゴー・ナイアガラ」放送のスポンサーになって欲しいとの相談が寄せられた。谷川は日本コロムビア社内調整に奔走する。 波料大滝から谷川に「自分がディスクジョッキーを担当している深夜のラジオ番組を続けたいが、コロムビア側でその費用を負担してくれないか」という相談が寄せられたのは、1976年1月のことだった。 ラジオ関東で吉見佑子の番組についで1975年6月から始まった番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は、2月までの電波料については確保されていたが、そのあとが決まってお

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第5回 ナイアガラ・トライアングル レコーディング パート2

『ナイアガラ・トライアングル』のミキシングは1976年2月に行われた。 大滝はコロムビア・スタジオ内でミキシングを行った。 コロムビアのミックス室「谷さん、相談があるんです。アルバム曲のミックスは、自分がやってみたいと思うんです。」 「素人のヤツがコロムビアのスタジオでは作業は出来ない。コロムビアには、管轄のミキサーがいると話しただろう。実際、そのミキサーも紹介しているだろう。」 大滝から相談を持ち掛けられた谷川は、冷たく返答した。 大滝は、エレックから出したアルバム『ナ

<一言コラム>日本コロムビア本社ビル (第5回『ナイアガラ・トライアングル』レコーディング関連)

1970年代、日本コロムビアの本社は、港区赤坂の高台にありました。 6階建ての本社の上には、大きなコロムビアのネオン・サインがありましたが、谷川氏によると、ネオンは赤坂丹後町内会からのクレームですぐに消灯されることとなったそうです。 フロア構成については、谷川氏の記憶によると、役員室が眺めの良い最上階の6階にあり、5階が人事関係。4階は大会議室にあてられていました。大会議室は、全社員を集めることが出来る広さが確保されており、新年には、社長自ら訓示することもあったそうです。

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第6回 ナイアガラのパッケージ・デザイン

アルバムのミキシング、カッティングと並行して、コロムビア社屋に大滝・山下・伊藤の3名が集まり、LP『ナイアガラ・トライアングル』とシングル「幸せにさよなら」のジャケット写真が撮影された。谷川はLPレコードのタスキ(帯)を4色刷りとすることを決めた。 トライアングル・イメージ 谷川が、朝一番で本社に出勤し、3階にあるデスクに腰掛けると、机には何枚もメモが置いてあった。 ざっと目を通したところ、どうやら昨日、デザイナーから何度も電話があったようだ。そういえば、大滝以外にも昨

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第7回 ナイアガラのパッケージ・デザイン パート2

「幸せにさよなら」のシングル盤を入れるスリーブを、コロムビアのカンパニー・スリーブでなく、ナイアガラのオリジナル・デザインにすることについても谷川は苦心した。 紫のエンベロープ 「お前が工場に出した指示書、通常のコロムビアの袋があるのに、新たに作るというのはバカか。」 谷川は、今日も朝から、製作部長から叱責された。 『ナイアガラ・トライアングル』の録音・編集作業は2月中旬に終了した。完パケである。現在、プレスとデザイン作業を同時並行で進めている。 テープは、コロムビア

<一言コラム>niagara ✕ COLUMBIA バインダー (第7回関連)

谷川氏は、1976年初めのナイアガラ・レーベルの日本コロムビア移籍にあたり、あらゆる機会を利用して知名度を上げようと努力されたそうです。 その1つとして、大滝詠一の宣材写真やこれまでの作品を紹介するパンフレット、楽譜などを入れて常に持ち歩くことができる、「niagaraのロゴ入りバインダー」を製作しました。 このバインダーの製作には、「niagara」という文字が、ふとした瞬間にどこからともなく頭の中に浮き上がってくるような、人々の目を引き付ける宣伝効果の高いものを作りた

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第8回 『ナイアガラ・トライアングル』発売記念コンサート

『ナイアガラ・トライアングル』発売記念コンサートが、1976年3月29日芝のABC会館ホールで行われた。谷川は、このお披露目コンサートを企画した。 コンサートの企画 「ワン・モア・タイム!」 大滝詠一が<ブルー・スエード・シューズ>を歌っている。エルヴィスが好きだという大滝の声が舞台袖の谷川まで届いてくる。 『ナイアガラ・トライアングル』発売記念コンサートも佳境に入ってきた。今日のコンサートは、最初の伊藤銀次の時に音調整のトラブルがあったが、その後は順調だ。舞台が思った

<一言コラム>ABC会館ホール (第8回関連)

1976年2月、東京の港区、芝公園前にABC会館が建設されました。 谷川氏によると、朝日放送(ABC)の東京支社長とは旧知の仲で、このABC会館ホールを毎月1度は使わせてもらう約束をしていたそうです。 谷川氏が携わったコンサートは、今回取り上げた『ナイアガラ・トライアングル』発売記念コンサートの他、ジャズ、シャンソンなど、歌謡曲以外の多岐のジャンルにわたったそうです。たとえば、前田憲男、タイム・ファイブ、稲垣次郎、深緑夏代など、実に錚々たるメンバーのコンサートが開かれたと

<一言コラム>日本コロムビア・グランド・スタジオ・ロビー (第9回関連)

1970年代、日本コロムビアの本社ビルのすぐ隣には、レコード録音用のスタジオ棟「Grand Studio(グランド・スタジオ)」が併設されていました。 スタジオ棟の地下1階には社員食堂、駐車場、1階にはロビー、2階に録音部(事務室)や小さな第3スタジオ、テープ編集室やカッティング室、その上の3階から4階にかけて吹き抜けでグランド・スタジオと第2スタジオ、4階はエコー・ルームや1スタの観覧席がありました。 谷川氏によると、ロビーのあるスタジオ棟は、本社ビルと分かれた浮き構造