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ロンダニーニのピエタ像(作品が生きている、と感じるとき)



ロンダニーニのピエタ像(ミケランジェロ、亡くなる直前の未完の作品)をイタリアでみたとき、「ひっ、生きている」とおののいた。

この感覚になるアートってほんとうに少ない。
何の気なしに宿の近くに城があるから、ふらりと入ったミラノのスフォルツァ城(現在改装され美術館になっている)でびっくりした覚えがある。

ミケランジェロの存在がすぐそこに感じられるのである。
嫌なエネルギー感ではないが、ものすごく「そこに在る」のだ。
ミケランジェロがいるというよりかは、イエスとマリアがそこにいる。

フィレンツェに長く滞在していたので、大理石の像はたくさん見ていたが、一度も「その感覚」を得ることは無かった。ロンダニーニのピエタ像はちょっとわけが違った。

この美術館での解説によると、ミケランジェロはいくつかピエタ像を作っているが、ロンダニーニのピエタ像は生涯の最後に、「自分のためだけに」彫った作品だったという。
パトロンのためでもない、依頼者がいるわけでもない、この像をじぶんの信仰心のためだけに作ったのだ。
それだからか、若い頃のピエタ像と比べると「自分」というものがそぎ落とされているのを感じる。
自分を誇示するための一手が出ないように、出ないように自問自答しながら彫って行ったのが、ノミの跡から見て取れる。
だが、彫るのはミケランジェロである。ミケランジェロが彫っているのに、じぶんをどんどん無くしていったら?残るのは、神の意志だけ、というわけか。


他の作品だと、同じ感覚になったのは「鑑真像」だった。
10年ほど前、上野で「阿修羅展」をやっていた時だったと思う。
友人とふたりで出かけて、入り口で「またね」と別れた。それぞれ、一人で見て回りたかったからだ。
ゆっくりぐるりと一回りして、友人と落合い、ふうむ、となった。
「…鑑真像、生きてたよね」
友人とわたし、どちらからともなく言った。
「うん、生きてた生きてた」
メインの阿修羅像も迫力満点で良かったのだけれど、それよりも、鑑真像が「ひっ、生きている」という感覚だった。

鑑真像に対峙したときに、自然と、何の疑問もなく(街中で恩師に会ったときのように)こんにちは、お世話になります、と挨拶をしかけた。
それは完全に「モノ」ではなく、生きた存在としてそこにあった。

鑑真像は作者不明だが、当時にとんでもない天才彫刻師がいたということなのか、それとも鑑真の苦しくも徳の高い生き方が、この像を彫らせたのか。


作者が同じなら、同じ感覚を得られるわけでもない。
同じく上野で「フェルメール展」に行ったとき。
いくつかフェルメールの絵画があったが、「マルタとマリアの家のキリスト」だけは、混雑の中立ち尽くしてしまった。
凄まじいほどの「ひっ、生きている」を感じた。
これは少し怖かった。えぐるほどに執拗に対象を見ている、その視線を、時を超えて絵画という窓を通じてわたしが感知した、のか。フェルメールとはいったいどういう人なのだろうと、なんというか、結果としての完成形の絵画の中では美しさだけそこにはあるのに、透けて見えるフェルメールの視線はグロテスクで、狂気すら感じてしまった。でもそれがフェルメールの魅力だろう。

「マルタとマリアの家のキリスト」以外も、フェルメールの作品はすべて存在感がしっかりとあったが、それはこの狂気じみた対象への執着からくるのかもしれない。商業絵画で、ここまでの仕事ができるのは、幸せというかなんというか。すごい。
(ちなみにわたしはフェルメールがどんな生涯を送って、どんなひととなりだったかということは全く知らないままに書いている…ここまで書いて、ほんとうは彼が超ドライでさっぱりした人間だったとしたら、それはそれで…怖い?)

ロンダニーニのピエタ像は、未完でよかったのかもしれない。
あのエネルギー感でもし最後まで仕上がっていたら、どうなっていたのだろうと、また怖い。


ひるがえってじぶんのことになると、生涯のうちに、作品でも文章でもなんでもいい、のちの人がみて「ひっ、生きている」と思わせるものを作ることが、できるだろうか。
真摯に、執拗に、かつ無私に。
そんな仕事がしたいものである。





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