得体のしれない「性」とはいったい。
かつてこの国には石を性器にかたどり
それを祀る信仰があった。
現代ではめったにお目にかかれないけれど
和歌山のとある神社で
御祭神の神様と一緒に
男女それぞれの性器をかたどったものが
祀られているのを初めて見た。
不意すぎて、ちょっと驚きだった。
実際には見たことないけれど
かつて日本には本当に
こういう信仰があったんだなと思った。
「タオ・コード」という本は
めす子が風俗のお仕事をしていた時、
≪頑張る≫をベースに生きていた
それまでの疲労がたたり、
立つことすらできない眩暈と嘔吐から
ついには入院まですることになった後、
また風俗のお仕事に復帰した
そのタイミングで出会った本です。
この本でいう陰のエネルギー、
俗にいうネガティブなエネルギーは
克服するものではなくて
受容していくことが大切なんだと知りました。
話は戻り、日本の神話に出てくる
国生みの場面では、
ザナギとイザナミとのソレがある。
世界の神話にも性のエッセンスが
ちりばめられていて、
昼ドラのドロドロしたストーリー
なんか比較にならないほどの
ドロドロしたものも結構ある。
既存の宗教を否定するつもりは
全くありませんが、
【性=煩悩】だと性は煩悩の一部でしかなく
性を悪いもの、排除すべきもの
として捉えてしまいます。
「性におおらか」というのは
「なんでもかんでも」という
ニュアンスではなく、
変に隠さず自分の性をクリアに認識し
受容することではないだろうか。
めす子がみた性器をかたどった石像は
かつて、いたるところに祀られていたという。
そこかしこにそれはあり、
現代よりももっと性が
日常に溶け込んでいたに違いない。
だけど自分の人生を振り返ってみて
性をナチュラルに語ることなどほとんどなかった。
生命は性からスタートするのに
そのことについて話さないのはなんか不自然。
性と真摯に向き合うことは
自分のルーツを想い
脈々と続く生命を考えることであり、
生命を考えることは暮らしを考え
日常を大切に尊ぶことではないでしょうか。
地球上のあらゆる生命が
流転するという視点に立った時
生命の根源を見つめることは
自分自身を見つめていくことであり
人生という空間に性のエッセンスがなければ
「本質的な私」からどんどん離れていく。
それは’表層的な自己’で人生を
メインドライブしているようなもの。
*TPOによっては、ペルソナが必要な場合もある。
けれどペルソナはあくまでも、
本質的な私に着脱し使い分けていくもの。
そして性エネルギーとは
エロスでも官能さでもなく
心と身体を繋ぎ結ぶエネルギーのことを
めす子は性エネルギーといいたい。
セラピスト
エステティシャン
インストラクターとして、
いろんな人の体に触れ
性を生業にしたからこそ
エロスも官能さも
性エネルギーの一部でしかない。
と、強く言いたい。
皮膚一枚の内側で
私というエネルギーを循環させ、
心と身体をとを深く
繋げるエネルギー。
それが性エネルギーの潜在性だと思う。
エクスタシーとでもいえようか。
エッジの効いた刺激ではなく
五感を通して心地よくいられるその瞬間
体中に性エネルギー・エクスタシーが
めぐり巡っているのだ。
体の深いところからでてくる
「ほっ」という心も体も深く緩む吐息が
でるような感覚にある時
性エネルギーは充満・循環しているのだ。
つまり、人生という空間に
自分自身と深くつながる
アイテムや場面が多くあればあるほど、
ナチュラルで本質的な自分自身でいられ
その状態でライフクリエイトすればするほど
幸せを感じる時間がふえていく。
逆を言えば、自分自身と繋がることを
阻害するものを見定め
できるのなら回避し、距離を置く
ということも大切なライフクリエイトの一部になる。
沢山の経験の中で嫌な思いも失敗も
その反転をみていこうとすることで
自分がどうありたいかを教えてくれる。
そうなると一見ネガティブなことも
実は幸せを感じるのに大切なエッセンスであり
だからこそ、陰のエネルギーを
受容することが大切なのだ。
内観力を高め、
深い呼吸で本当の自分を
見つめていく在り方。
それをもたらすのが性エネルギーの核である。
この視点に立った時、
改めて本来の性エネルギーには
官能さやエロスをはるかに超越した
壮大で穏やかなものが内在していると思えてくる。
(完)
めす子
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