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あなたはとことん「デジタル進化」して、私はとことん「アナログ人間」をする。


注1)この記事は年の締めくくりというタイミングで、今まで学んだことをまとめて残しておきたいための、ほぼ自己完結な内容となっております。

注2)20年弱という年月のその時々の私A・私Bなど複数のレイヤーがかかっているので、途中で読むのが止まってしまうような文章です。






「ペンは剣よりも強し」
ペンを通して表わされるその言葉は、時に人を感動させ、時に人を悲しませることもできる。
言葉には読む人にとって解釈が異なる性質があることを重々承知のうえ、今ある命と、人間という感覚をかみしめたいという私のエゴから始まる長くなるお話です。

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大学入学後、中野のブロードウェイで中古のパソコンを買った。
OSはWindows03’だった。

レポート提出や調べものなどに大いに活用させてもらい、当時ちょうどYou Tubeがでたころだった。

使っていた携帯はワンセグ機能の付いた、家でなくてもテレビが観れるが最新機種のケータイで、SNSではmixiが主流だった。


そのに2・3年後くらいに、ソフトバンクがアップル社のスマートフォンを販売開始した。
当時「タッチパネル」という指先で操作するという、画期的なデジタル機能として出てきた。
すでに今は音声操作があり、触れることすら必要としないデジタル機器がたくさんある。
ドローンがでてきたのもこの期間だ。


テクノロジーを含めた科学技術開発は、なによりも真っ先に軍事技術として注がれるのだが、とうとう宇宙軍という最先端技術のフィールドワークが表立って地球を離れて宇宙になった。
地球に住み経済活動に勤しむ一般庶民からしたら、想像できないようなことが日進月歩進められている。



実家が仏教家系で仏教哲学やお経の意味を学んでいた時、仏教観はそもそも宇宙観と知り、「それじゃ宇宙について学んだ方がはやいのでは?」と思いブックオフで宇宙に関連する本を探し始めた。
スティーブン・ホーキング博士のハードカバーの本を¥100円でゲットできた時はとても嬉しかった。



お経の中にある


其身非有亦非無

非因非縁非自他

非方非円非短長

非出非没非生滅

非造非起非為作

非坐非臥非行住

非動非転非閑静

非進非退非案危

非是非非非得失

非彼非此非去来

非青非黄非赤白

非紅非紫種種色


という一説。



どういう意味だ?何を表しているんだ?はてな?、、、となってしまう字面だけれど、これは「生命」を意味する経文であるらしい。


生命とは何か?はまだ定義できてはいないけれど、「~に非ず」の否定の表現を用いて、なんとなく上記のようにニュアンスを伝えることができる。


生命って何なんだろう。
それを解き明かしている人はいるのだろうかと思っている時、本屋さんの岩波文庫コーナーで、生命とは何かというそのままのタイトルで出されている本を見つけた。
それが『生命とは何か/著:シュレディンガー』。


物理学者の頭のOSと単細胞な私のOSは違いすぎて、ホーキング博士の本もシュレディンガーの本も何を言ってるのか、ちんぷんかんぷんで途中放棄した。物理学者の論理展開にはアレルギー反応がでてしまう。


「仏教の宇宙観」・「生命とは何か」を物理学的観点で紐解くことを早々に諦め、けれど人間が生きる環境空間である森羅万象への想いは薄れることはなかった。
なので当時ダ・ヴィンチのような多岐にわたって表現できる脳みそに憧れていて、ダ・ヴィンチの手記を読んだけれど、ほぼ日記のようなもので、ハウツー本では無かった。(あたりまえか)


Windows03’とガラケーを使っていた当時、まだブラインドタッチがおぼつかなく、かつ一時間弱パソコンの前に座っているだけで、電磁波ストレスを感じていた私にとって、今後ますます社会の主流になるテクノロジーとの向き合い方を真剣に考えざるを得なかった。


SF小説や映画やアニメでは反重力の乗り物や、人間の言葉に反応してくれる、人間かロボットか区別のつけようのない生命体などあたり前にあったが、実生活ではまだまだ遠い未来のことのように感じる世相であった。


「パイレーツオブカリビアン」をはじめ、ティム・バートン監督作品でおなじみのジョニー・デップといえば、少しコミカルな演技のイメージが強い。2014作品の「トランセンデンス(原題:Transcendence)」で、AI社会におけるシンギュラリティの浸透・社会変容を描いており、それまでのコミカルな彼のイメージを払拭した。


一目見たい!と大学の授業をさぼって、パイレーツオブカリビアン2作品目の試写会に行くくらいに大好きだったジョニー・デップ。
彼が人口知能役をしてくれたおかげで、幾分かシリアスさを排除してシンギュラリティについて当時考えることができた。
(どう考えたって、人工知能を伴った大きなパラダイムシフトは全人類に課せられた、避けることのできない大きな命題である以上、人任せにはできないシリアスな面はぬぐいようがない)


テクノロジーの未来を考えた学生時代、仮に50年後の未来で声一つでなんでも操作できる時代がくるのなら(当時はまだアレクサなどは出ていなかった)、ブラインドタッチですら過去のものになり、どちらかというと、何ができるというスキルやキャリアよりも、何を想い何を考えるかの方が大切なのではないかと思った。



ある日レポート課題に追われWindows03’のパソコン画面と向かいあいながら、ふと「デジタルテクノロジーはますます進化していき、人工知能があたり前の世界になる。私はおばあちゃんになっても、どんどん今の形態の人間を極めよう」と、このパソコンというテクノロジーが進む未来と、自分が進む未来の方向性を明確に認識した。
それが密かに自分の生きる方向性を深く自覚した瞬間だった。
(命の始まりは性から始まるので、性を探求することは必須のことだった)



卒論でケネディ政権について書こうとケネディ政権に関する書物をはじめ、軍需産業のことなどを調べていた。
今でこそあらゆるところで都市伝説として、ケネディ暗殺についていろいろ言われているが、当時はまだYouTubeがではじめの頃で、ダラスでのあのシーンをはじめ、ほんのわずかしか関連するものがなかった。




現在はだいぶ1つのジャンルとして市民権を得ているようだけれど、それ系の話をすると毛色扱いされるので、あの時は四面楚歌な気持ちだった。
そのなかで落合信彦さんの書物などは、数少ないありがたい文献だった。


ケネディ政権について調べれば調べるほど、整合性が取れない点がいくつも出てきて、なんかおかしいという違和感がぬぐえなかった。
そこから少しづつ、諜報機関について調べるにシフトチェンジしていった。
(通じる人には通じる話)



情報について、まず私自身にすでに自覚できないくらいの刷り込まれた情報があり、そのなかで無意識に取捨選択していることを認め、ではどういう視点で情報と向き合えばよいかを基点にまとめていった。


卒論のテーマについてプレゼンした後、教授からアドバイスをもらうのだが、「昔からある職業はスパイと娼婦だ」とおっしゃったその言葉になぜか興味をそそられた。


スパイも娼婦も表立ってする活動ではなく、アンダーグラウンドな領域だけれど、そもそも性そのものがアンダーグラウンドにおいやられてないか?とおもった。
人は皆性を通じて生まれてくるのに、おおっぴろげやあけすけにせずとも、性がアンダーグラウンドなのは不自然じゃないかと。


この時、森羅万象・生命にアプローチするにあたり、性は避けては通れない学問だと思った。


スパイと性。
今思うと全然関係性が無く思うけれど、目の前の知りたい!に貪欲だった私はそれらが知れることにワクワクしていた。


死ぬときにとことん≪人間≫をしたか否か。だけが大切だった私にとって、社会がデジタル化していく中で、アナログ感覚に舵を切ることはとても勇気が必要だったけれど、その時背中を押してくれる書物に出会う。



あらゆる最新のデジタルを駆使されながら、ハイパーメディアクリエイターという肩書で有名な、高城剛さんの著書『引きこもり国家日本』。



デジタルとアナログのはざまで、両者ともどもに常にアップデートをし、クリエイティブにひたむきな姿勢に憧れた。
高城さんが書かれた本はいつも私の指南書となり、新しく本が出るたびに面白い!楽しい!なるほど!すごい!と感嘆文が体から湧き起こっていた。
特に東京でカチコチに固まった体が、沖縄の浜辺で寝てたら体が軽くなったというエピソードが当時の私には痛烈に響いた。


周りは就活を終えて卒業を待つだけの友人だらけの中、卒業するには得た知識が少ないし、社会人になるまでには、あともういくつか違う経験もしたいと葛藤する度、高城さんの本を何度も読んだ。
新卒採用というブランドや、休学したら経歴に穴が空くだとか、周りに休学を反対されたけれど、デフレが続く日本社会の、ちっさいところでくよくよ悩んでるなと、休学をし試してみたいことにチャレンジした。




高城さんという存在のおかげで、デジタルなクリエイティブとアナログなクリエイティブを私なりに追求する方向性ができ、今日にいたるまで自分の問いを見つめ続けることができました。

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同じころ、進化論で有名なダーウィン生誕100周年のイベント展示が国立科学博物館でおこなわれ、進化論をまだ純粋に信じていた当時の私は工学マニアな友人と足を運んだ。


この地球は縦・横・高さの3次元構造とあわせて、重力が働いており、その物理的制約において、物体は3本足から安定して立つことができるのに、人間は2本足で立っている。なぜだろう。


二コラ・テスラは「3,6,9の数字の持つ力を解明しさえすれば、宇宙へのカギを手にいれることになる」と残している。


3次元において、4本足の他の哺乳類とは違って不安定なはずの2本足で立ち、言葉を扱う生命体である人間。
人間はサルからの進化において、自然発生的な遺伝子の突然変異からできたのか、はたまた人為的な遺伝子の変異なのか疑問に思う中で、進化論を素直に信じることをやめると後に決めた。


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森羅万象をのぞいてみたいとおもいはじめてから18年。
昨年にChatGPTが世にでてきた。
(そういう類の人工知能はまだ少し先だとおもっていた。)


人間もAIも言葉をツールに進化・進歩していくのは同じ。
神と共にあったその言葉の統治力でいえば、瞬時に膨大な情報にコネクトできるAIの方が優位なのは言うまでもない。


AIというまだ余白の多いマーケットにおいて、人間よりもAIの方ができることにフォーカスされがちだが、逆にAIにはなくて、人間にあるものは何だろうか。


それは突き詰めていくと、《生命とは何か》にぶち当たる。
生きているということは、生命があるということ。
2000年以上前のお経に記された先ほどの経文を、また改めて読み返す時がきた。


男と女というDNAレベルで繰り広げられる『生命流転プログラミング』。
先祖から受け継がれてきたカルマや意識形態の波、己の顕在意識ができる前からプログラミンされているそれらは、精子と卵子単体では発生しないのに、いざ合体するとどこからか湧現するという生命が織りなす御業。



AIになくて人間にあるもの。
そもそも生命とは何か。
科学技術が乏しいときには哲学者が、技術が進歩したら科学者や物理学者がそれらに挑んできた。



仏教哲学から物理学の領域にアプローチした時は、仏教がそもそも宇宙のことを説いているものであるなら、【科学と仏教】はともに歩みよる森羅万象における1つの雛形として、照らし合わせていこうと決めていた。
あれから20年弱がたち、最近の巷にあふれるワードを観ていくと、【科学と仏教】ではなく、【物理と仏教】の方が親和性が高いように感じる。



地球工学系の本を読んでいた時(意味不明に見える数式は、すべてスルー)、目に留まった図があった。
それは、素粒子から宇宙に至るまでの自然界の階層なのですが、当時毎日仏壇の前で読経していたお経に、自然界の階層を思わせる経文があった。
その一文は『物の生成プロセス』を表現している一文なのですが、自然界の階層の図をみたとき、あの経文とリンクしていると思った。
(*自然界の階層図:シェルダン・L・グラショウ/素粒子物理学者)



経本に書き込みをするなんてご法度かもしれないけど、ただ唱えるだけじゃなく、一文一文をきちんと理解したかった私は、当時経本にレ点や文語文を書きこんでいた。
周りに見つかったら怒られそうだったので、丸暗記していたお経は1人で唱えるときだけ、経本をひらき意味を理解しながら読経した。


今となっては私の住む家にお仏壇はなく、罰があたるといわれても、罰は罰であたったら怖いけれど、感情を抑え込むに過ぎないと一度思ってしまったものからは離れようと思った。
自分の目で体でもって、仏教や物理でいう森羅万象を人間として体感しつくそうと決意した。
(性を生業にすることより、仏罰がいつどんな形でくるかわからない方が、何倍も不安で怖かった)


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イエス・キリストや仏陀が、弟子たちに法を説いている様子をlive配信していたら、当時限られた人だけが知りえた口伝や説法の内容を、ちがった形で拡散されていたかもしれない。


二コラ・テスラがもし、インスタやYouTubeを駆使していたら、苦手なロビー活動に労力を使わず、思いに賛同してくれる人たちからクラウドファンディングを募って、エジソンよりももっと飛躍する未来があったかもしれない。


もし過去の偉人(人格者ではなく)と呼ばれる人たちが現在のツールを使えたとしたら?というありもしない妄想を巡らせ、万物が流転し、森羅万象において存在する「私という生命」に焦点を合わせた時、世界中の偉人たちが残してきた言葉や研究内容をむすぶことは、壮大ながらも頭の中にあるたくさんの【?】を【!】にかえてくれるかもしれない。


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生命を中心において、肉体と精神・感情と思考でもって生命観を深めていく。
それは神道でいう直日霊を中心においた荒魂・和魂・幸霊・奇霊の一霊四魂のよう。
もともと備わったものをバランスを取りながら、生命観をふかめていく、直日霊を湧現させていく。
そのために健全な肉体と健全な精神のもと、五感からアクセスしたアナログ感覚で得た情報を言語化しアウトプットする。


そこから見えてくる壮大で深淵なエネルギーは、何気ない日常に新たな息吹を吹き込んでくれる。


人類に最も共通して、最大の謎である生命とは何かというテーマ。
近い未来にそれを全人類が哲学せざる得ないタイミングに差し掛かっていると思ってしまう。



哲学において正解はない。
私という主観がある以上、客観的に考えることは不可能でありながら、それでも客観的考えるに努めて、本質的に普遍的に考えて、考えた事象をアウフヘーベンさせていく。
そうやって抽象度を高め、これ以上ないという限界のところまできたら、それがある意味正解なのかもしれない。


そして抽象度を高めたのなら、それがどこまで普く通ずるかの普遍性を観ていく。

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人間は言葉を話し、読み書きを覚え、文章をインプット・アウトプットすることをベースに文明を発達させてきた。


その文明進歩は、鉄くずから人を殺めるものまで作るようになった。
現代人は貨幣・通貨がベースの資本主義を採用しているが、その資本主義において一番単価の高い業界は軍需産業だ。
人を殺めるために利用する鉄くずが、一番単価が高いなんて変な経済システムだと思わざるをえない。



もしかしたら、金融や資本主義などあらゆる社会的システムを作った雲の上の人たちが、今もなお人間の恐怖心を刺激しながらお高みの見物で過ごしているのかもしれない。



資本主義で潤うのは上の人、日々新しい商品やサービスを追求・消費するのは下の人。
戦争で儲けるのは上の人、被害にあうのは下の人。
上は上同士で血縁を結び利害関係を強固にし、下は家族・地域社会・学校社会・職場・恋愛結婚・子育てと、都度直面する通過儀礼で忙しい。
上の人間は下の人間の競争意識・マウント意識を大いにあおり、分断意識を形成させ、酸いは下々に、甘いは上々(かみがみ)が味わえるようになっているのかもしれない。



もし仮に、上記のように上と下の構図が、産業革命や石油の次にAIへと、利権・覇権のメインフィールドがスライドするならば、下々の人は五感すらあちら側に委ねられた未来がパラレル上にあるかもしない。
どれだけ瞑想して脳波を整えたところで、電磁パルス一発で自分の意志とは裏腹に脳波は簡単に変えられるのだ。



はるか昔からから、恐怖心を刺激されるとそれを避けるがための行動を起こし、テリトリーを奪い合い、見えるものだけを範疇に取捨選択を行うという人間の意識・思考フォーマットは変わっていないようだ。(私はその反応があることを自分の中に観る)




テクノロジーが進化し、物流が地球上、空も海もくまなくいきわたるようになった現代、人類の欲望の【対象物】は変わっても、欲望・願望の【次元】は変わらないようだ。
(海賊王になりたい主人公の漫画には、知識の実のリンゴを食べつくしたような頭の形をした天才科学者がでてくる。次々に湧き出てくるアイディアと開発のために、他の脳内の役割を6つの分身にしてわけたうち、【欲】を担当する分身がぬけがけをする。とても考えさせられた場面だった。)



地球上では文明を持つ哺乳類はヒトだけなので、生物上では上に位置している人間だが、言葉を用いる生命体・意識体としてのポジショニングはどこに位置づけできているのだろうか。


欲望の次元が変わらないとは、言葉があるのにも関わらず、都度社会全体で人間・生命とは何かという問いに対し、潜在的にアウフヘーベン・アップデートできていないのではと考えてしまう。(いつもこの考えを思いめぐらすとき、三島由紀夫が脳裏に浮かぶ)


生まれてから言葉やいろんな教育を受けてきたけれど、【全体意識】については何も教わっていない。
家族・学校・地域・社会・國など、組織全体における全体像とそれぞれの役割や感係性につい学び、それに基づき意志疎通をはかることは、人間関係において余計な摩擦を取り除く。


・違い→優劣→分断意識
・違い→役割→全体意識


分断構造の中で欲を深めるその先の未来に何がるのだろう。
(欲を満たすことが悪とは思っていません)

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人間とはなにか。
肉体も精神も感情も思考も存分に使っていない人間がわかるのだろうか。
分からないけど分かりたい。わからないけど感じたい。わからないけど考えたい。わからないけど実感したい。


まだAIに性という感覚・ホルモンの働きがないのなら、とことんそれを味わいたい。


フロイト心理学から抜け、東洋思想を取り入れたユング。
彼は、男性の無意識内にある女性的側面をアニマ・女性の無意識内にある男性的側面をアニムスと定義した。
あるのかないのか目に見えないが、おそらくあるとみなした方が人間意識のはたらきをまとめやすい、無意識という存在。
これは仏教哲学でいう九識論の第八識に当たる。


オンナらしさ・オトコらしさは、己の中の女性性・男性性を結び合わせながら、『わたし』という生命を一元化させていくことのほんの一部でしかない。


己の心の刀(男性性)を己の心の鞘(女性性)に納める自分の心の中にある働き。この一点に尽きる。
肚に納めるための練丹術。


これは他者の言葉から試行錯誤できても、自身の肉体を感じる自分だけが成しえること。

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性を通して生まれる新しい生命。次世代に渡せるものは、國そのものである。
その國を作っているのは政治家ではなく、主権在民の1人1人の1票であり、貴重な1票を投じる行為を行う1人1人の意識と肉体である。



選挙に行かない人は誰に票を入れても同じという。
そりゃそうだ。
日本は敗戦国なので、敗戦国は敗戦国としてしかるべき政治をさせられているのだから。
そういう意味では誰が選ばれても同じ。


ではこの國に住む人々はそのロジックを承知のうえで政治を観て、政治に参加しているのだろうか。
日本において投票率が半数というのは、自身の生命空間が主権在民・法治国家のもと活動しているという認識がないということで、社会の成熟度としてみたときに少し虚しさを感じる。


一度救急車に運ばれて以来、救急車や消防車のサイレンが聞こえるたびに、手を合わせるようにしている。
いつからか1日のうちに聞くサイレンの回数が増えたように思った。
気のせいか?とおもったけれど、どうやら気のせいではないようだ。
このことが意味することは何だろうか。


どんなに悲しくても、苦しくても、未来という不確定性のなかで希望を持つというなんともロマンチックなのか、賭けなのか分からない思いにかられ、1日1日を仕切りなおす。


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井の中の蛙は、まずは自分の身の回りにある見たり触ったりできる情報を元に、後にたくさんの線と連なるよう演繹法を用いて、あらゆる情報を点にし、分解していった。


次に田んぼに出て、四季の移ろい、自然の恵みを全身で感じた。
用水路だけで十分満足していたが、一度試しに海に出てみた。
そしたらそこは数字や力を顕示する弱肉強食の世界だった。




一度引き返し、得た大海の情報を整理してみると、その海はどうやらレッドオーシャンとブルーオーシャンに分けられるらしい。
そしてよくよく覗いてみると、この言葉の大海原では、ブルーオーシャンもレッドオーシャンの巻き添えをくらうみたいだ。
もはやそれはレッドオーシャンならぬ、ブラッドオーシャンに見えてくる。分断意識のなせる業。



もともと井の中にいた蛙は、無双になるための武装をし、ブレないためにとことんブレ、戦わないために戦い、謀をしないでいいように謀をした。
そうしていくうちに、己の刀を己の鞘に納める本質・中心軸にはまる感覚にであった。


そうやって隙間隙間を見つけながら下に下に潜っていくうちに、とうとう太陽の光が差さない深海にまでたどりついてしまった。


太陽の光は届かないから、体はどんどん無色透明になった。
圧はものすごいが、もともとアンダーグラウンドなあれこれにアンテナが立つような性分であり、Wi-Fiがつながっていれば十分なので深海で泳ぐのがちょうどいい。


奇しくも『引きこもり国家日本』という本を読み、既成の枠から飛び出そうと思ってから月日がたち、2020年で世界中が引きこもらされた。
その時はまだ身体的にオーガズムについてまとめようと思っていた段階だった。
それまで見た知った経験したものを、総動員してまとめるつもりだったけれど、まとめるには最後のピースが足りないことに気づいた。



それが日本という國だった。


関西弁から標準語に言葉を直してから、カタコトの日本語になってしまって、それ以来「日本の方ですか?」と9割の確率で初対面の方に聞かれるようになった。
さらには生命とは何かというあまりにも引いてみる視点が、この國に住むに日本人っぽい雰囲気を薄めてしまい(異国から来た人感を漂わしていたようだ)、しまいには海外の方に「Where are you from?」ときかれるしまつ。
「I'm Japanese.」といっても信じてもらえない。
日本生まれ日本育ち、両親ともども日本人なのに。


うすうすは気づいていた。
自分のアイデンティティを生まれた國に置きたいけれど、海外の方のほうが波長があうことを。
(調べたケネディ政権のことも唯一理解してくれたのは、身内ではなく海外の人だった。どれだけ日本はメディアコントロールされているんだ。)


なかなか日本の文化に波長を合わすことが長年できずにいけれど、最後のピースは日本の伝統文化・古史古伝と降参し、馴染めそうなものから手を付けていった。


あれから月日はながれ、今となってはむしろ森羅万象の雛形は日本のそこかしこにあると観る。


数百年・数千年単位の人類史ではなく、数千年・数万年単位の地球史。
における日本。


ここまでくると、これ以上は数十年しか生きない限られた人間の知識で推し量ることすら、おこがましいと感じてしまい、これ以上は何も考えない。

*****

己の心の刀が己の心の鞘におさまるというあり方。
それは自分が自分の本質にあり、自分が自分らしくいられる心地良さと、ズレた時の不快さとの押し問答。


釈尊が菩提樹で悟りを開くプロセスにおいてあらゆる魔がささやく。
「そんなことしなくても、もっとなラクな方法があるよ」と。
それを超えての悟り。


何度も10時間お経を唱えることを若いときにはしたけれど、悟った状態が何なのかはいまだにもって全く分からない。
けれど本質に在る感覚を知った今、刀を抜きそうになっても、抜かないでいいに戻れる本質・心のHOME感がある。
本質からズレること、ズレそうになる心の働きそのものが、魔が入る隙や穢れなのだと気づいたならば、穢れを穢れと知れる、気づける心こそが大切なのだとおもった。
穢れに気づいては祓うを粛々と行うのみ。


有意義に時間をすごせたか?
無理はせずとも、人間として肉体・精神の鍛練ができたか?
温かい想いを持てるよう努めれたか?
自然の恵みに感謝できたか?
人間やりきったか?
と一日の終わりに自問自答し、失敗も悔しさも身に抱いきながら、温かいお布団にはいれること自体に感謝して眠りにつく。



宇宙がある。
地球が回る。
朝がきて夜がくる。
春に植物が芽吹いて冬に枯れる。
そのサイクルの中で命が生まれては死んでいく。
あまたある揺らぎの中で今日一日をどう過ごそうか。
今この瞬間、地球上のあちこちでたくさんの創造が生み出される。


素粒子から宇宙に至るまで、何一つ動きが止まっているものなどない。
流転することが宇宙のひな型で、フラクタルであるならば、アナログ感覚を体内で巡らすことは、物理的に自然な摂理に則っているのではと思う。


私は今日も酸素と二酸化炭素の出し入れ、食事からの排泄、清らかな血液循環、自立してバランスをとってくれる神経の働きなど、精子と卵子が受精した時から己の意志からは自立して機能してくれる、生命に内在された流転プログラミングに感謝しながら、今日も愚直にアナログな人間を行っていく。


この感覚は、病気をした人が健康に過ごせることがいかにありがたく、大切なのかを再認識するのに近しいかもしれない。
いつかの未来では、肉体がいらなくなるかも知れなくなから。


地球上の生き物は、長い年月をかけて環境に適応するために形態変化をする。
人間は?
デジタルはどういったかたちで人間の中に入るのだろうか。
もしくは人間がデジタル空間に入っていくのだろうか。
近い未来にどのように人間は形態変化するのだろうか。


*****

18年間のあらゆる学び、もっというと中学卒業したら働くつもりでいたのを進路変更した14歳から、立つアンテナがいつもどこか周りとずれているというコンプレックスと緊張を抱きながらの23年間に一度ピリオドを打ち、全身を通じて考える神経回路も一度シャットダウンしよう。



そしてここにまでこれたということは、何よりも生まれてからずっと日本語に守られていたことに気づけたことに感謝である。



毎日目が覚めたら、無事に迎えられたことに感謝し、目の前にあるすべきことを淡々とこなしていこう。【完】



*****


《参考資料》

・「引きこもり国家」日本~なぜ日本はグローバル化の波に乗り遅れたのか(高城剛/宝島社新書)

・デジタル日本人(高城剛/講談社)

・資集本主義の終焉と歴史の危機(水野和夫/集英社新書)

・メディアコントロール~正義なき民主主義と国際社会(ノーム・チョムスキー/集英社新書)

・ケネディからの伝言(落合信彦・小学館)



*****

【note的 つぶやき】

ここまでお付き合いいただきまして、
誠にありがとうございます。


日本語の面白さを感じるものをお一つ。


淡々との「淡」は、冷静と情熱の、火と水。
「ヒ」と「ミ」。「カ」と「ミ」。
「カ」と「ミ」を「ア」・「ワ」せる。

日本神話において、初めて夫婦神として出てくる、
イザナギとイザナミが国生みした島。

アワジシマ。
「淡」路島。


日本語は本当に奥深い。


良い年末年始をお過ごしください。

*****



めす子





























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