回顧雑談 5/24

幼稚園児だった頃の私は、問題児だと言われていた。
お遊戯は恥ずかしくてくだらないと思っていたので、ひとつもまともに参加しなかったし、
みんなが教室でなにかつくる時間にひとり、園庭へ出て駆けまわったり、
職員室の鍵をこっそり持ち出しては、おもちゃ箱の中に隠したり、鏡や椅子にマジックペンで落書きをしたりを繰り返していた。
そのことでしょっちゅう親が呼び出されていたことも知らない私は、なんの恨みもないのに園長先生を汚い言葉で呼んで逃げたりするような、クソガキだった。
それでも、周囲の大人には在り方を否定されるような怒られ方をした覚えがない。

唯一怒られた記憶は、今でも忘れられない大ホールの入り口でのことだ。
ホールの扉は分厚いガラスのような素材で、その日なぜか5人くらいの友達が、その扉を総出で蹴りつけていた。
何事かと私も近づいて理由を尋ねると「このドア、この人数で蹴っても割れないんだよ」と言う。
それならば、と私は前に出て、ひとり思い切りよくドアを蹴った。

割れた。

おいおい、話が違うぞと思う間に、集まっていた子たちは退散して先生へ言いつけに行く。
裏切られた気分でその場に立ち竦んだ私に、ほどなく駆け付けた先生。
空いていた隣の教室の隅へ連れていかれ、私と目を合わせるようにしゃがみ込まれた時
「みんなも蹴っていたのに」「どうせひとりで怒られるんだ」と不貞腐れた態度だったと思う。でも、そうはならなかった。

「怪我をしたらどうするの?」最初にそう言われた。私は泣いた。

あれは怒られて泣いたんじゃなかった。今だから説明できることだけど。
心配されたのが嬉しかったし、悪者扱いされなかったのが嬉しかった。
私はその出来事から少しだけ心を入れ替えて、休み時間に手作りの紙芝居を披露するようになった。「自分」の表現の仕方がこの頃から物語を語ることに変わっていったのだろう。

卒園の劇だけは、まともにやった。
担任の先生と母が、「初めてまともに参加している」ことに泣いていた。
私は嬉しかったけど気恥ずかしかったので、「うわー鼻が赤くなってるー」とかなんとか言って茶化した記憶がある。
試行錯誤しながら、周りの大人たちが見守ってくれていたのだと思う。
一番幼い時の記憶が、「尊重されていたこと」だったと今振り返られることが、行動への肯定感に繋がっているのだと最近振り返って感じることだ。
「マニュアル通りにいかない」と先生を悩ませていた問題児が、「子供たちに何を伝えられるか」と資料館活用をしていることが今更面白く思えてきた。

尊重された記憶も、博物館で出会った狼の剥製も、約30年後の自分が資料館で狼の剥製を展示することに繋がって「三つ子の魂百まで」を強く実感している。


ガラスを蹴破ったあの頃の話を母にした時「どんなことをしても、あなたが大切な存在である、ということが伝わるように接しましょう」と園に言われていたと聞き、25年の時を経て大号泣してしまったのだった。

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