ミリオンダラー・ベイビー

 本日はクリント・イーストウッド監督の「ミリオンダラー・ベイビー」のお話をしたいと思います。これは映画館で観ました。かなり凄いという評判が聞こえてきたので、私も期待して劇場に行ったことを覚えています。

 しかし私は全く内容を知らずに観に行きまして、後半の展開にはちょっとびっくりしてしまいました。クリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンという「許されざる者」でおなじみのコンビで、何となく安心出来る映画かな、と。スポーツを題材にとった感動作かなと思っていたらとんでもないことでした。非常に嫌な現実を見せられるやりきれないドラマだったのです。

 まずトレーナーをしているイーストウッド。これが長年育てたボクサーに裏切られたりとさんざんな人生を送っています。ジムで働くモーガンも、スクラップという名の通り、再起不能になってしまったボクサー。そしてヒラリー・スワンクもボクサー志望の女性としてジムに来るのですが、貧困に苦しみ、ボクサーを目指すには微妙な年齢と、負け犬だらけの映画です。

 それでもヒラリーの情熱が通じたのか、イーストウッドはトレーナーを引き受け、それなりに活躍していくのですが、あるアクシデントで、彼女は半身不随に陥ってしまいます。ここからの展開はもう泣けるとかそんな生易しいものでなく、作り手に悪意があるのかとも思えるほどヒラリーにとって災難続きとなります。

 結局彼女の人生は一瞬だけ輝き、夢を掴んだかと思われた瞬間、転落してしまったわけで、クライマックスで治りようがない自分を殺してくれとイーストウッドに頼むところなど、その栄光を味わってしまったがために、自分の現在の状態に耐えられないのでしょう。何ともやりきれない話です。

 この映画はかなり作るのに勇気が必要だったと思います。形だけ観ると安楽死(というか尊厳死ですね)を肯定するというか、半身不随や不治の病の人が苦しみから逃れるために死を選ぶことを奨励しているように取られかねません。でもこれは単に一人のボクサーが行った選択であり、それに協力した一人の男の話でしかないのです。イーストウッドの映画は一貫してそうですが、何かメッセージを押しつけるのでなく、その人物が何を選択し、どう生きたかということを淡々と描くだけです。

 それでも最後にイーストウッドがヒラリーの呼吸器を外すところは、何も特別な演出をしていないのに、何か厳かな雰囲気すらあります。映画のクライマックスとしてこのシーンというのは、かなり度肝を抜かれました。いや音楽や大げさな演技といった月並みな演出をしていないだけで、実はここでは光と影による素晴しい映像による演出がなされています。というか全編そういう見せかたに徹しています。

 最初に観たときは、これはボクシング映画じゃないな、と思ったのですが、後に再見すると、ある意味究極のボクシング映画かも、と思えて来ました。ヒラリーは最後までボクサーとして死にたかったのだなと思ったのです。倫理観とか法律とか関係なく、ここではヒラリーとイーストウッドの間の閉じた世界の中だけで合意が出来ていればそれで良かったのでしょう。この映画が実はラブストーリーであると言われるのも分かるような気がします。

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