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もぬけ

会いたい人がいる___


今年もまた寝苦しい季節がきた。
夏本番直前に慌てて買った送風機も、不眠と暑がりと、この近辺の蒸し暑さには勝てないらしい。

4月上旬に始まった新学期に心躍らせ、隙を作っては趣味に興じようという僕のビジョンは総崩れとなった。
生活の質は、下がった。
……というのも、相方の授業がオンラインではなく実際に登校してのものに変わった…というか戻ったのだ。
あれだけ世界を騒がせた新型コロナなるウィルスも、存在するにはするのだろうが、それを恐れて得体の知れない論争が勃発し、ネット上で知らない誰かを言葉で殴り合う現場を見掛けることもめっきり減り、街中ではマスクを外した人がぽつぽつ歩く。
つい先日まで「学校にも行けない、職場にも行けない、家にいるのがつらい」と言っていた民衆は「学校だるい」「仕事だるい」である。
個人、企業、老若男女問わず大打撃を与えたものは、今や誰の頭も支配しておらず、人々は何事もなかったかのように別の火種を見つけては論争を繰り返す。

ある意味実に平和だ。

……時代の形を変え、時間やチャンス、きっかけを奪われたのは確かだと思うのだが、そんなことを気にしている人はあまり見掛けない。
…僕の執着心が強いだけなのだろうか。

予想と違う2年間を強制されたら、強制されなかった2年間についても考えてしまう。
ifルートのようなもの。

このところ寝つきが悪く、薬やら酒やらに頼らないと全く眠れなくなってしまった。
とはいえ相方の生活もあるので寝ざるを得ない。
ぶっちゃけ徹夜したほうが捗る物事のほうが多いし、満足したり落ち着き切った途端に電池切れの如く布団に倒れ込むのがデフォだったのだ。
小さな頃からずっとそうしてきた。
誰と同居していようと、誰の家に転がり込んでいようと、完全に自由奔放だった僕の生活は、僕自身と彼自身の決断によってある程度「人間っぽい」形式の生活に固定された。

気の向くままに出掛け、旧友と話し、過去や未来に思いを馳せることも少なくなった。
食べたいときに適当なものを拵えて食べ、やりたいと思った時にやりたいことに熱中し、出かけたい時に出掛けたい場所へ赴く。
自身の学業だの仕事だの以外で時間を縛ったことは殆ど無かった。
明かりは点けたい時に点けるものであり、その日読む本は気分によって選ぶものだった。

こうして文字を打っている今ですら「話が逸れすぎ」と感じる辺り、今までにないほどに刺激と外交と成長に飢えていることもわかる。
壊したいのだ、形式を。
飛び出したいのだ。何かから。

その勢いをぶつける場所もなく、喉を通して言葉にして広げることもめっきり減り、久し振りに古いPCを起動させ、綴る。

寝苦しさからか夢見の悪い日々が続いたある日から、見る夢の傾向が変わった。
始まりはネットを通して何度か通話した人。
その人と対面したことはないのだが、プライベートの話をすることもあり、年もそれなりに離れていることもあって気に掛けていた。
「いま、どうしているだろうか」
目が覚めた時、久し振りに連絡を入れてみようか迷った。
が、他のタスクや僕の『気後れ』が一番の要因で、連絡を入れることはなかった。

その日から連日、別の誰かが入れ違いで夢に出てくるようになった。
……。
すべて僕が『未練』を残している人であり、『関わる切っ掛けを失い、もう一度関わるチャンスを見送ってしまった』人である。
どうしてこのタイミングなのか。わからない。
夢は、僕に何を訴えたいのだろうか。わからない。
今日眠れたら、次は誰が出てくるのだろう。

今朝、僕が起きた時には相方は既に学校へ向かっていた。
それもそうだ。
僕は明け方の4時ごろまでは記憶も意識もあったが、どうにも眠れず、結果あらゆる成分を胃袋にぶち込んで無理やり寝たのだから。

誰も居ない部屋の中で、懐かしい人の夢をもう少し見続けたくて、目を閉じて横になっていたが、ほんの少し先が見えた辺りで身体は脱水を訴え、起きるしかなかった。
生ぬるい麦茶を飲み干して、もう一度横になり天井を見つめる。
眼が渇き、閉じる。
眠りは訪れなかった。
僕は、もぬけの殻だった。

話しても伝わらないことがある。
書いても、描いても伝わらないことがある。
経験、感情、想い出。
本人しか味わうことのできなかったそれぞれの人生は、どんな手段を駆使しても完全に伝えきり、表現することは、多分できない。
少なくとも今の僕には。

読書は良い。
誰かの文章を読むことは、書き手の人生、感性、視点や経験のごくごく一部にちょっぴり触れ、覗き見することができる。

…有名か著名かと言われれば全くの無名だが、伯父が自伝を出版したことがある。
幼い頃、僕は伯父に憧れ、陶酔し、惚れていた。
心から慕い、懐いていた。
伯父は独り身だった。
母の実家に戻ったときは、伯父の一人部屋に入り浸り、仕事風景を眺めたり、その部屋に置いてある電子ピアノを弾いたり、置いてあるオルゴールの螺子を巻き、時には同じベッドで眠った。
豪邸のような祖母の家の外観に似つかわしくない、伯父の部屋の壁紙。
手で触れば凹凸とした感触が返ってくる、不規則で細い縫い糸みたいな構成、宇宙みたいな配色のよく分からない壁紙だった。
ツルツルしているように見えて、しっかり触ると柔らかくフサフサしている。
安物のストーブ、会社から貰ってきたようなボロくて安っぽい金属の足の椅子。
そんな中で机を覆うA4用紙に真剣な眼差しを向けて、時々僕に微笑みかける伯父とゆるやかな時間を過ごすのが好きだった。
ドアの近くには、スキーウェアに身を包み、白銀の世界で笑う伯父の写真が1枚だけあった。
驕らず、真摯な人。決して目立とうとしない人。
自分のやることに真っ直ぐ向き合い、それでいながらイレギュラーな道も進んでいき、海外に滞在し、世界を見ていた人。
現実を見ていた人。
伯父の匂いが好きだった。
1階には豪邸に相応しい立派な掘り炬燵と当時にしては最新の暖房機器が温かい空気を提供する中、その部屋だけは宇宙のようで、深海のようで、冬らしく寒かった。

思えば、運動音痴で日頃触れないものに対して億劫だった僕が、父の趣味に付き合わされて雪山にスキーをしに行ったとき。
怖かった。寒い山も、里で見かけないような雪も、高い場所も、滑ることも。
その全てが嫌だった小さな僕を、父に無理やり山頂まで連れてこられた僕を。
背後から包み込むように小さなスキーグローブの上から大きなスキーグローブを重ねて。
「大丈夫、安心して。全部任せて、兄さんを信じて。」
そう言って、伯父は僕を前方に抱えながら、器用に速度とバランスをとり、時には「どう?足元は見ないで、真っ直ぐ前を見てごらん?」と言いながら、僕と伯父は風を切って滑った。
その山がどこだったのか、今の僕にはわからないけれど、その瞬間に見た景色は一生忘れることはないだろう。

その時から、雪原が好きになった。雪山が好きになった。
冷たい空気をいっぱいに吸い込むのが好きになった。

伯父と一緒に雪山を滑ったのは、多分それが最初で最後だった。
アメリカに滞在することも少なくなかった伯父と、キャンプやスキーに行く機会には殆ど恵まれなかった。
それでも、たった一度の経験で、僕は恐れなくなった。楽しむことを知った。
それから僕は、自然の中にいるときはいつも一人で、心から自由だった。
僕が完全に独り立ちしたのは、この時だったんだと思う。

それからの伯父はいつも多忙で、新年の親戚顔合わせで3日間過ごせればいいほうだった。
伯父が海外にいる時は母にねだって、電話をかわってもらって国際電話で話した。
母の兄だったので「兄さん」と呼んでいた。
血筋も性別も年齢の概念もぶっ飛んでいた僕は「大きくなったら兄さんと結婚する」と、家族や親戚一同に何年間も断言していた。
大人から見れば、それは「ちいさな子供の可愛らしい姿」だったのだろうが、伯父だけは僕の本気を察していたと思う。
そして、適度に心地の良い距離感で対等に接してくれた。

僕が若くして実家を出て一人暮らしをすることになったのは、妹と父の口喧嘩が絶えなかった時に仲裁に入った時だった。
その日から父の当たり先は僕へ変わり、妹と母は毎晩繰り返される僕と父の口論で弱っていった。
元々「こんな家、早く出てってやる」と幼少期から思ってはいたものの、一家全員の気がふれる前に「物理的に距離を置くべきだ」と決意し、母に話しを持ち掛けて、最終的には不動産屋の経験があったらしい伯父が母に知恵を貸して、僕は間接的に伯父のおかげで10代半ばで家を出ることができた。
幼いながらに「早く家を出ていきたい」とずっと言っていた僕が本気だったことを察していたのは、恐らく伯父だけだっただろう。
直接「本気なのは分かるよ」と言われたわけでも、「信じてくれるよね?」と訊いたわけでもない。
ただ、殻を破って手を伸ばし、自由と知識と刺激を欲し、一般道から少し逸れ、それを貫く行動力は…僕の目線からでも重なるところがあった。

(今にして思えば、伯父は多様な経験を持っていた。海外留学、サラリーマン、翻訳関係、試験官、空港のアナウンス…(知らない世界はどこにあるのだろう))

僕が血筋を意識したのは、年月が過ぎるごとに変わっていく親戚たちを見た時だった。
瘦せ細るか、一気に太るか。
そして、身体に異変が起きるかどうか。
母方の親戚は一同、決まった年齢で足か腰を壊し、一気に太り、禿げ、健康診断での数字に異常が出て再検査や入院となる。
あれだけ細身だった伯父は、少し見ぬ間に一気に太り、デスクワークで腰を壊し、軽く走ろうとした矢先にアキレス腱を痛めて歩けなくなった。
海外では藪医者に当たり、口内の神経から体のあちこちに麻痺がいった。
仕事も休みを取らざるを得なかった。

身体に恵まれなかった。運に恵まれなかった。
伸ばした手は届いたが、恵まれた機会以上に恵まれなかったものも多かったように思う。
若かりし頃の面影は見た目こそ消えたが、伯父は伯父のままだった。
踏んだり蹴ったりなアクシデントに見舞われても、完全に悲観することはせずに、誰かと話すときは笑って『話のネタ』にしていた。
していた、というよりも自然とそうなっていて、それが伯父の持つ人柄であり、魅力だ。

僕の貪欲さに比べるととんでもなく無欲に見える。
どんな形であっても、伯父と同じ墓で眠りたいと思っていたのだが、祖父と連名で母と伯父は同じ墓に既に名前を刻んであるので、僕はそれも諦めた。

そんな伯父もコロナ禍で苦しんだ。
英語が得意だった伯父だが、活躍の場を無くしてオンラインで家庭教師……
自分の老後や寿命について支度を進める伯父に、ある日電話を掛けて頼ったのだ。
僕もまた、仕事が激減していた。
親族の中で唯一尊敬し、信頼していた伯父。
そんな伯父がどうしているのか、どこにいるのか気になったこともあって、何年も前の正月に顔を合わせて以来、ずっと更新のない電話帳の番号に掛けてみたのだ。

妹からはヒステリで目の敵にされ、それ以降、妹の話を鵜吞みにして感情論で話す母が尾鰭や背鰭をつけてあちこちに話して回るので、僕はその時から厄介者というか、煙たがりの母は僕の現状や存在に関して、全く話さなくなったらしい。
存命である祖母にも、伯父にも。

何年前だったか、故郷とはいえ実家のあった群馬から、大学在学中に”その時は”生涯を共にする予定だったパートナーを支えるため、自分の経験を活かし、住む部屋を新たに探し、仕事と学業を掛け持ちながら埼玉へ移った。
誤解と偏見により、一族とはその後決裂。
当時のパートナーの親の粘着により、雲隠れするために埼玉県内で引っ越し。東京に仕事で通っていた時期もあり、群馬の血縁とはより疎遠になった。
当時のパートナーとは何度か三が日に実家に顔を見せに行ったことはあるが、それは『妹が帰省しない』タイミングで『当時のパートナーの問題行動や相手方の親が干渉しない』タイミングのみであった。
簡単に言うなら「僕サイドとその交友関係が円滑に見える」という都合のいい時しか、実母も実父も、僕と関わらなかった。
必要事項で電話を掛ければ「お前と話すことはない、面倒だ」「これ以上疲れさせないで、巻き込まないで」と一言いわれ、要件も聞かれずに切られる。

新年に祖母(祖父は他界)と伯父に「なんとかやってるよ」と言葉を交わすチャンスは肉親によって絶たれ、何年もずるずる時間が経って、ようやく電話越しに聴いた伯父の声。
当初は他に頼れる人がいなかった。
…違う。
僕は人に頼らずに生きてしまった。
そして初めて助けを求めてしまった。伯父に。
その上、僕を水面下で裏切り続けているルームメイトの行いに気付くことが出来ず、責めるべき人を責めずに、追い詰められている伯父を追い詰めるような話をしてしまった。

このままでいいのだろうか。
カードキーで開けるタイプの、綺麗な建物内にある墓石。
僕はきっと伯父の墓参りに行けない。
そして「あいつは勝手に出て行って好き勝手やってる」と吹聴されている僕は、大好きだった伯父の葬儀に参列できるかも分からない。
伯父が亡くなったという報せも廻ってくる保証などない。

頭を下げ、礼を言い、謝りたい。
「今の自分」を伝えたい。
母の独断で無言でシャットアウトされた関係。
伯父も祖母も、実際に僕を煙たがっているのか、話したくないのかなんて本人に聞かなければ真相は闇なのに。
でも、今の自分を誇れず、まだ胸を張って話すことはできない。

自分だけではない。
自分の周辺の整頓も済んでいない、近辺整理も清算すべきものも、何も進んでいない。

一人でいたらきっと楽だった。
結婚し、離婚し、また結婚して。
何度も引っ越して。
普通でない経験だけが、話しきれない経験だけが積もっていく。
そうする間に、時間は過ぎる。
顔を合わせて生きているうちに話す回数も、可能性も、こうしている間に減っていくのだ。
「逆に、今の自分が連絡を取ったら」と考えたこともあった。
引け目しかない。
上手く話せない。説明できる情報量でもない。

伯父もまた、多忙だ。
…ただ、今どこでどんなことを思い、どんな人生を送っているのだろう。
邪魔はしたくない。
ただ、後悔もしたくない。

僕は一度覚悟を決めないとずっと優柔不断だ。
「もっと早く話せばよかった」
とは思いたくない。

この数日で夢に出てきた人。
唯一、義務教育中に関わって謝りたい同級生。
他校の友達、妹の同級生の兄。
僕の価値観や人生観を切り開く切っ掛けになった伯父。
ネットで時々交流して、通話で現状報告をしていた少女。

いつ、どんなことがあって連絡が取れなくなるかもわからないのだ。
…そもそも、相手は僕のことを覚えていないかもしれないくらいに、昔の話なのだ。

次に関わる機会があったとき。
若しくは関わる切っ掛けを作ったとき。
僕は鬱陶しいと思われるのか、なんとも思われていないのか、数年ぶりに再会した友人のように思い出話や世間話に話が弾むのか。

…。
何より、僕のこの優柔不断な行動が、他の人の可能性を狭める未来に繋がることが、怖いのだ。

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