リフレクティングプロセスと盛和塾1226

盛和塾における純粋な意識での聞こえ

盛和塾という経営の王道を学ぶ、企業家のための経営塾が今年36年の歴史を閉じました。写真や映像で盛和塾の撮影記録をさせて頂きました「観察者」という視座から観て感じた「ある現象」の説明を試みたいと思います。

画像1

【純粋意識での聞こえ】とは日本を代表する哲学者、西田幾多郎さんの、『善の研究 第一編 純粋経験』「聞くというのは、事実其の儘に聞くの意である。全く自己の細工を棄てて事実に従って聞くのである」の「純粋意識」を拝借し「聞く」ではなく「聞こえ(てくる)」を足した造語です。以下は盛和塾では「純粋意識での聞こえ」が起こっていたという仮説です。

画像3

経営体験発表では、まず発表者が原稿を読み上げ塾長と参加者は聞きます。

講演やディスカッション、議論ではなく、「話す」と「聞く」がはっきり分かれ、一方向ではなくお互いが入れ替わる構造があります。話は途中で遮られることなく、話者は物語を話し切ることができます。また聞き手も物語を聞き切る事ができます。

普段の会話を観察すると、てんでに話す形が取られることが多いと思います。が経営体験発表では「話す」と「聞く」がはっきり分かれています。

また話者は原稿を推敲するなかで、今までの背景を改めて「外在化(文字化)」し受け取り直すことができます。そのことで自分の内で起こっている事に向き合い、整理できるかもしれません。

話者(発表者)が話しきると、今まで聞き手であった塾長がコメントをされるのですが、コメントをされる前に必ず話者(発表者)の言葉を正確に引用されます。ハーレーン・アンダーソンという人がこのように書いています。

見て(観て聴いて)考えるとき、自分の先行理解や自分の解釈をそこに持ち込み始める。しばしば翻訳(相手の使った言葉を自分なりの言葉に変換)や解釈をするとき、(相手との)考え違いが大きすぎて、他の人(相手や周りの人)との「つながり」の機会が失われてしまう。

常にいきなりコメントをされませんでした。常に「つながり」を大切にされました。慎重に相手の話を聴き切り、自分が話されるときは、相手が話した内容をそっくり其の儘反復され、その部分に対してコメントをされます。

教師ー生徒、親ー子、上司ー部下、経営者ー従業員など、上下がはっきりしている場合、話者の話を途中で遮り、自分なりの言葉で自分の解釈を話しがちです。まず聞き切り、相手の言葉を変換せずに引用して、その部分に対して話しをしだす。これだけでも関係性は良好になる可能性があります。

また塾長のコメントはしばしば私たち「聴衆」に向けられます。聴衆は舞台の上で行われていることを「観察(もしくは鑑賞)」しています。この場では聴衆は発言することはできません。観察のみです。しかし、他の人の話として聞き、それに対してのコメントを客観的に聞く、直接的に会話に巻き込まれていない状態なので「全く自己の細工を棄てて事実に従って聞く」ことができる可能性がこの場にはあります。(聴く自由と聴かない自由)

1リフレクティングプロセスと盛和塾1226

勉強会後の懇親会では舞台と客席という「あいだ」はなくなり、「観察者」は各テーブルで対話をする機会を得られます。そこでも他の人の意見・想定に丁寧に耳を傾け、他者の他者性を認め、また自分の感じたことを話し共有する事で、個々人の中で「内発的な気づき」が起こります。

この際に「傾聴」するという事が起こっています。その様子をトム・アンデルセンが以下の様に記述しています。

「彼らが本当に意味していることではなく、彼らが実際に言っていることを聴きなさい!(ハリー・グリーシャン)僕らが彼らの本当に意味していることを聴く瞬間、僕らは彼らの言うことを僕らの観点で解釈している。それは、僕らが、彼らの言うことについての意味を作りだしているということだ。セラピストであれ、研究者であれ、聴き手にとって、「彼が本当に意味しているのは何だろう?」とか「彼女は何を言おうとしているんだろう?」という内なる声を打ち捨てることが、大切だ。彼らが話すこと以上のものはない。だから、僕らは彼らが言うことを注意深く聴かねばならないのだ。僕の願いは、セラピーや研究について、人間のテクニック(技術)としてではなく、人間のアート(技)、他者との絆に参加するアート(技)として語るようになることだ。」

これを読んで思い出した事があります。かなり昔の事ですが、バレリーナの森下洋子さんとテーブルが同じになったとき、「稲盛和夫という人物を森下さんはどのようにみておられますか?」と訊ねたときのお返事。

"彼はアーティストです"

トム・アンデルセンが行った「話す」「聴く」「観察する」という対話の形から見えてくるものは、他者の他者性を認める一人の人間としての在り方・生き方が大切であるという事なのかもしれません。

引用はこの本からさせて頂きました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?