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坊主憎いけど、その袈裟メッチャええやん♡

坊主憎いけど、その袈裟メッチャええやん♡

ダイアローグがアフターコロナの時代に根付いて当たり前になったらいいなあって、コロナが来る随分前から日々坐禅し現実化を観ているヲバタです。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ってこの言葉ありますよね。でも「有難いはずのお坊様が憎いってどういうこと?」って思って、ネットで調べてみたら、江戸幕府が寺請制度を設けたときに出てきた言葉のようです。一部のお寺さんが「権威」を利用して悪事でもはたらいたのでしょうか。

憎いのは坊さんだけども、何ら関係のない「袈裟」までいっしょくたにされて憎まれてしまうという。。。

あれっ? これって物理学者のデビッド・ボームが書いた「ダイアローグ」って本にもでてくるやん!

ダイアローグ・デビッド・ボーム著【対話と思考 49p】

人が持っているさまざまな意見が、過去の思考の結果だという点は需要である。すなわち、誰かから聞いたことや聞かなかったこと、あらゆる経験が記憶にプログラムされているのだ。人はこうした意見と自分を同一視し、それを守ろうとするかもしれない。

ほれほれ、デビッド・ボームは書いている。「人」と「その人の意見・想定」をいっしょくたにして憎んでしまっていないか?
坊さんと袈裟を私たちは「同一視」しがちだ。

だが、そんな行動は無意味である。

デビッド・ボームによって、坊主と袈裟を同一視する「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」は無意味となりました。

もし、その意見が正しいなら、守ろうとする必要はない。もし間違った意見ならば、そもそも守る必要があるだろうか? しかし、意見に自分の姿を重ね合わせた場合、人はそれを守ろうとする。意見に意義を唱えられると、
まるで自分自身が攻撃されたかのように感じるのである。
このように、意見は「真実」としてとらえられがちだ。たとえ、それが単なる想定だったり、人の背景を成すだけのものにすぎなかったりしても。人は教師や家族、読書、その他にもさまざまな方法を通じて意見を得る。そして、なぜかそうした意見と自分とを同一視し、正当化しようとする。

人と、その人の意見・想定を同一視しがち。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
意見憎けりゃ人まで憎い・人が憎けりゃ意見まで憎い

一物をもって聞くは馬鹿にすることの始まり也

お世話になっている老師の言葉ですが、「予め何らかの妄念(一物)を抱いて人の話を聞くこと」に警鐘をならしておられるように思います。

あんた嫌いやけど、その意見は凄く良いと思う。

「あんた嫌いやけど」は「誰かから聞いたことや聞かなかったこと」で作り上げた私の中の妄想でしかないので、妄想は少しヨコへおけるようになると、様々な意見・想定を一旦は受け容れらることができる人が増えて、アフターコロナの時代は豊かになれるかもしれませんね。

坊主憎いけど、その袈裟メッチャええやん♡

目の前の人と、その人が口にしている意見・想定を同一視せずに聞くことが、傾聴・対話の極意なのかもしれませんね。

今朝(袈裟)の妄想おしまい。




坊主好きやけど、その袈裟はチョット....w も忘れたらアカンね。


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