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般若心経とリフレクティングと稲盛和夫

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罜礙。無罜礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説。般若波羅蜜多呪。即説呪曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。般若心経

一度は聞いたことがある、また馴染みがある人も多いのではないでしょうか。今回は般若心経の中身の解説ではなく、研究をしています「リフレクティングプロセス」を用いて般若心経の構造を紐解いてみたいと思います。更には、昨年解散されました盛和塾との近似も見ていきたいと思います。

リフレクティングトークの構造

まず「リフレクティングプロセス」というのは、ノルウェーの精神科医トム・アンデルセンが、1985年に始めたとされる家族療法において行われた「リフレクティングトーク」という会話方法です。

この「会話方法」には「話し手」と「聴き手」と「観察」という3つの構造がありますが、構造だけではなく非常に奥深いものがあり、療法という枠を超えて遍く「人々のあいだをひらく」可能性があると考えています。

リフレクティング構図

上記は「リフレクティングトーク」の構図です。今回は「構造」のみを取り上げますが、この「話す」「聴く」「観察する」というそれぞれに非常に奥深いものがあります。が今回は構造を見ていきましょう。

一般的な会話と違う点は、それぞれが「てんでに話さない」ということです。「話し役」「聴き役」「観察役」と「役割」がハッキリしていることです。更にはこの役割が入れ替わっていくのです。例えば今まで話を聞いていた「聴き役」が「話し手」となり「観察役」がその話を聴き、「話し役」が「観察役」に回るといった感じです。

摩訶般若波羅蜜多心経の構造

私達が親しんでいる般若心経は「小本」というそうで、別に長い「大本」というのもあるそうです。「小本」は序文が省かれていて、そこにこの構造を読み説く鍵がありそうです。

般若心経構図

般若心経の構図は上記のような感じになります。舎利子の『衆生が「般若波羅蜜多心経」の智慧を得るにはどうすればよいのか?』という問いに対して、(この部分が序文に書かれています)釈迦牟尼世尊は「深い瞑想」に入っておられたので代わりに観音菩薩様が答えています。リフレクティングの構造にあてはまります。

ここからは要らぬ妄想ですが、そもそも舎利子は十大弟子の「智慧第一」ですから、釈迦牟尼世尊が瞑想から覚めたときに直接聴けばよいのですが、わざわざ観音菩薩様を登場させて代わりに答えさせています。

これはなぜか。

詳しいことは専門家の先生や詳しい著書にお任せするとして、ここでは「リフレクティングプロセス」の構造について説明を試みてみたいと思います。

「話し手」の観音菩薩様「観察役」の釈迦牟尼世尊が居る前で 、十大弟子の一人、それも智慧第一の舎利子「聴き役」に話さなければならない。これちょっと観音菩薩様にとっては真剣勝負ですね。間違ったことは言えないし「ドキドキ」だったに違いありません。

また大本から省かれた最後の部分に、「話し手」の観音菩薩様が話し終わると、「観察役」の釈迦牟尼世尊は深い瞑想から覚めて今度は「話し手」となり、「そう、その通り」と言ったとされています。

お〜!般若心経は「リフレクティングトーク」ではないか

そしてこの全体像を更に「観察」しているのが「私達衆生」となります。

これは、情報を正しく伝えるという機能があるように思えます。もし観音菩薩様が間違ったことを話していたら、釈迦牟尼世尊は瞑想から覚めたときに「そう、その通り」とは言わないと思います。「リフレクティングトーク」には高く、深く、広い展開可能性、応用可能性があると思います。

実際のところは「リフレクティング」の研修・実習に我が身を投じれば、実在でもって実感できます。これ以上言葉で解説しても、それはもう「言葉」でしかありません。機会があれば是非体験してみて下さい。

盛和塾の構造にみる「リフレクティングプロセス」

塾長メッセージ

上記は2019年12月31日をもって解散・活動を終了した経営の王道を学ぶ、企業家のための経営塾【盛和塾】稲盛塾長から塾生へのメッセージです。リフレクティングトーク・般若心経の構図に当てはめてみると以下のようになります。(本部及びサイト等は2020年1月でもって終了)

盛和塾構図

「私の代わりに、誰かが「フィロソフィ」を解説しても、もうそれは稲盛哲学ではありません。」と明言されています。構図としては上記のようになり、今後の活動について仏典に倣うなら「如是我聞」という姿勢になるのではないかと、個人的には考えていますが如何でしょう。

また、同様にリフレクティングプロセスを通して、現象としての「盛和塾における純粋な意識での聞こえ」について考察していますので、是非ご覧頂ければありがたいです。

まとめ

「観察」という「視座」を置く、ノルウェーの精神科医トム・アンデルセンの「智慧」で起こる現象に注目して説明を試みてみました。

釈迦牟尼世尊の前で、真剣に舎利子に話す観音菩薩様の話を、黙って観察していた釈迦牟尼世尊が口を開いたら何を語るか。もし、塾長の目の前で誰かが京セラフィロソフィを語っていたら、塾長は何を語りだすか。もし、子どもが自分の事について両親が真剣に話すのを「観察」していたら、その子どもが口を開いたら何を語り出すか。

「てんでに話していたらおこらないこと」が起こります。

真剣にされる「話し手」の話がもしも違っていたら、「観察者」は平和的に間違いを言語化できる可能性を有し、合っていれば更にその背景にある「見えざる世界」を言語化できる可能性を有す。ということです。分ける事が多い「言葉」ですが、「豊かな間」と「新鮮な場」を創出するリフレクティングトークが醸しだす「言葉」では、人と人が分断されがちな現代に於いて、社会ネットワークとのつながりが、修復され、回復し、再接続され、人と人の「あいだ」が開かれ、人と人がつながる可能性が高いと考えています。

是非、リフレクティングトークの体験会などで、我が身を投じて体験してみて下さい。般若心経を読むときに、摩訶般若波羅蜜多心経が持っている構造的な智慧が活きてくると思います。

命とはつながりである
みんなでおこなう会話を通した平和な活動


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