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紙の本が持つ「もの」としての価値と、付随して思うこと

いま、紙の本には二つの価値があると思っている。
一つは、物理的に他人へシェアできる価値。
もう一つは、所有したいと思える「物質」としての価値。

前者はたとえば家族や友人、チームメンバー間で同じ知識・情報を共有したい、あるいは獲得して欲しいときに有効だということ。お勧めされてもそこに購入という手順が加わると少なからずハードルになってしまうし、気軽な「貸し借り」の文化はまだまだ根強いし有益だ。仮に一共同体(チームや家族)で所有するためのタブレットが持たれるようになったとしても、共有したい相手が別のコミュニティ所属の場合は対応がややこしくなる。

後者は何となく想像がつきやすいものかもしれない。
その内容が自分に大きな影響を与えたであるとか、その作家のファンでコレクションすることに意味があるとか、単に電子書籍化されていないとか。
これらの理由はもちろん自分に当てはまるものなのだけれども、個人的にはもう一つ別の理由がある。
「魅力的な装丁かどうか」だ。

魅力的とはどういうことかというと、自分に関して云えば美しいないし心動かす絵や装飾が施されていたり、手に取った肌触りが気持ち良いこと。
とりわけ手触りというのは自分にとってわりあい大きな要素で、本文ページのやわらかでなめらかな紙の触感もさることながら、表紙に少し凹凸のあるざらりとした固めの紙が使われているとなぜだか嬉しくなってしまう。
(そういえば、学生のとき楠本まき先生の「致死量ドーリス」を購入したのもジャケ買いならぬ装丁買いだった。あの白く謎めいた美しさには抗えなかった…)

少し話は飛ぶのだけれど、あらゆる情報の取得手段がスマートフォンに集約されつつある現代社会において、私たちの見るものや聞くもの・触れるものの多くはすでにスマートフォン等の端末そのものになっている。端末という言葉を「デジタル」に置き換えても良い。いずれは匂いや味も何らかの形で体験できるようになるのだろう。

あらゆる感覚の情報化によって、いままで所有によって獲得していた体験はどんどんシェアできるものに変わりつつある。
その過渡期にいる私たちはずいぶん前から「アナログの物質や体験」の価値を問われ続けているけれども、まだその答えは明確に言語化されていない気がする。少なくとも、社会の共通認識としては。

いつかそれがはっきりとした言葉で示されたとき、デジタルとアナログの技術や生産物は新たな段階に進むのだと思う。どちらが絶対的な正義ということではなく、市場の棲み分けのようにそれぞれがそれぞれに求められた役割りを果たす。
その言語化作業の一端を、現代に生活する一人一人が担っているのだ。

「なぜ、端末ではなく紙の手触りが好きなのか?」
「なぜ、画面ではなく印刷された文字が好きなのか?」
「なぜ、スワイプではなく「めくる」作業が好きなのか?」

合理的なだけの基準ではなく、一人一人の「好き」「心地良い」という基準を掘り下げることによって。

ということで、「紙の手触りが大事」という私の小さなこだわりも、まだまだ持っていていいかしら。

Baby, it's all right
という心持ちの昨今です。

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