暇と退屈

あるテレビ番組で紹介されていて気になったことがきっかけで、國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読んだ。

冒頭を読んで、そもそも僕は暇で退屈という感覚が全くわからないと感じ、一旦本を置いてその理由を考え始めてしまった。

僕は田舎出身で家から学校まで距離があったため、一人でただ歩いていないといけない時間が膨大にあった。話し相手もいないなかで、自分で何か楽しみを見出さないといけないということで、色々な空想に耽ったり、道路に落ちている石とかの何の変哲のないものから何か遊びを考えたりを繰り返したことで、暇を楽しむ術を自然に身につけていたんだなと思った。

一通り自分がなぜ退屈を感じないかの結論を出したあとでまた本屋を読み進めていったので、様々な分野の知識を参照しながら暇と退屈に関する考察を深めていく様を面白く感じつつも、自分はその苦痛に悩まされていないため、どこか他人事のように感じていた。
最後まで読んでも、この本の主眼である「どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生きていくか」の結論として述べられている暇つぶしと退屈が共存する退屈の第二形式で生きていくことが、ある程度の納得感はありつつも実感としてその状態がうまく飲み込めずにいた。

一旦、ここまでで読むのをやめてしまい、いろいろ考える良いきっかけとなったが、結論はそこまで響かなかったなあと思っていた僕のこの本に対する感想は、付録「傷と運命」の部分を読んで大きく変わった。
ここでは本文中では深く触れなかった人はなぜ退屈するのかについて詳しく述べられていた。
その中の退屈の苦痛の正体を見る中で、これは僕の中にもある感覚だと思った。僕は退屈の苦痛を実際は知っていたが、それを退屈が原因だと気づけていなかったんだと知った瞬間、この本の言わんとしていたことの解像度が一気に増した。
そこで書かれていたのは、退屈による苦痛とは、周りからの刺激が少なくなって穏やかな状態になったふとした瞬間に訪れる過去の傷が思い出されることにより生じるものであるということだった。この感覚は僕にも覚えがあるし、むしろ人よりも頻度も鮮明さも強いと感じているものだった。これを理解した後では本文の結論は傷とうまく付き合うための方法なんだとわかり、人々に寄り添う優しい結論だと感情が揺さぶられた。
さらに付録の最後では、傷との付き合い方として本文で述べられていることに加えて、他者との関わりの中で初めてできることがあるという部分は一人で悩んでいた人には大きな救いになると感じた。(まだこのあたりは研究途上で不明な点も多いそうだが)

付録まで通読すると、人の生について多角的に見識を深められる上に、感動もさせるような素晴らしい本だった。
いくつか読んでいく中で、気になる点があった。
特に僕が最初退屈の苦痛をそれとは認識出来なかったように、この苦痛の本質を退屈と言い表して良いのかよくわからない気もする。もう少しピッタリ当てはまる概念がないのだろうかなど、これをきっかけにもっと考えを深められそうだと思った。

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