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聖書タイム2021年11月:「舟出の『時』」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
「とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
「おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時…泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時…黙する時、語る時…」
ーー 旧約聖書・コヘレトの言葉3:1ー8

冒頭の聖句は旧約聖書「コヘレトの言葉」3章からの(抜粋)引用です。この書はキリストが生まれる前BC931年ごろにダビデ王の息子で知恵者だったソロモン王が晩年に書いたとの見方が有力、「時」についての箇所は詩情あふれる名文としても有名です。

2021年も残すところ、あと2ヶ月弱。人は昔から過ぎゆく「時」を思い、日本人なら時の移ろいに「物のあわれ」を感じることも。また、有名な中国の漢詩の一部「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰 軽んずべからず」は、よく引用されます。今年も払拭できなかったコロナ禍、あなたは、どんな「時」を過ごしたでしょうか。忍耐の「時」、変化の「時」、喪失の「時」、創造の「時」、喜びの「時」、学びの「時」ーー。

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さて、このコヘレトの書、驚くのは1章の出だしです。

「コヘレトは言う。なんという空(むな)しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた、一代が起こり永遠に耐えるのは大地。」
ーー コヘレトの言葉1:2ー4

これが聖書なのかと思うほどニヒル。日本人には平家物語の触りを彷彿とさせます。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」

確かに歴史はくり返し、人間進歩無しも然り。鬱々とした悲観主義者のようなコヘレトですが、彼が言いたいのは「神を知らない人生の空しさ」。そして人間の知恵、力には限界があると示唆します。

3章11節では「神はすべてを時宣(とき)にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と続けます。人の生涯は生まれた時から死ぬまで「時」の連続、けれどもそれを自分の都合のためにコントロールすることは不可能、誰も過ぎゆく時を止めることはできません。神こそが「時」を司る唯一の存在で、人間がいくら計画を立てても、計画倒れも多々。「永遠を思う心を人に与えられる」とは、「時」を司る何者かを知りたい、神を知りたいという思いでしょうか。

結局ヒアリングなどの末に出た結論は12章13節「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」。同じソロモン(コヘレト)が書いた旧約の箴言1章7節にも「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とあります。

では、その結論「主を畏れる」とは、どういうことでしょう? 例えば海。与謝野蕪村の名句「春の海 ひねもす のたりのたりかな」は、平和そのもの。でも同じ海でも台風時は猛り狂います。本当に海を愛する人は海のあらゆる顔を知っています。そんな海の様々な顔に触れ、人は尊敬の念にも似た畏怖の念を大自然に抱きます。自分の無力さを感じるからです。その思いはやがて海を大切にする思いに繋がるのです。

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旧約イザヤ書では預言者イザヤも「神を畏れる」に触れます。

「エッサイの株から一つの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊 主を知り畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」
ーー イザヤ書11:1ー3

エッサイとはキリストの先祖の名前で、株はルーツを指します。ひとつの芽とはキリストのことです。つまり「エッサイさんの家系から救い主キリストが生まれますよー」との預言です。また、主の霊とは聖霊で、知恵、識別、思慮、勇気に加えて、主を知り畏れ敬う霊性をキリストに注がれた方です。先の「海の例」のように、聖霊の取りなしにより、神を知れば知るほど、愛すれば愛するほど、主を畏れ敬う霊に満たされます。聖霊はキリストだけでなく、私たち人にも内在し共に一瞬一瞬「時」に伴って下さいます。キリストの名を通して、父なる神を人に、人を父なる神に双方向に伝達する、目に見えない謙遜な方です。

一方、キリストは十字架にかかり、私たち人類が犯した「罪の時」を全て負ってくださいました。そしてその血潮によって私たちを清めました。キリスト復活「時」に白紙の「時」が全人類に戻されたと言っても良いでしょう。それは罪によって途切れた「命=時」が「永遠の命」に繋がった瞬間です。キリストの昇天後、バトンタッチでこの地に降りた聖霊は、望む人を内側から復活させ、その命を「永遠の命」という大いなる「時」に地上にいる今から既に繋げてくださいます。

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私個人にとってコロナ禍の日々は忍耐の「時」、2021年は試練の年でした。私は聖霊様を願い求め、探し求めました。その過程で私の信仰は大いに試されました。舟出したくても暗黒の海辺で身動きができず、ただただ、じっと待ち続けるかのような日々が過ぎていきました。でも、耐えられないほどの苦痛ではありません。確かに辺りは闇でしたが全然怖くありませんでした。聖霊様を体内に迎え入れた時から、私の大切な家族や友人の顔を持った、たくさんの天使達が羽をはやして飛んできて、私はその優しさに囲まれました。また、美しい声援と応援が用意され、たくさんの祈りが私のために捧げられました。その方達は今も祈り続けて下さっています。聖霊の光の下、みなさんの祈りに支えられ、試練の暗黒は私には全く暗くありませんでした。

「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わることがない」
ーー 詩篇139:11-12節 

そしてある日、その試練から突然、解き放たれました。いつか皆さんに試練のことを具体的に語れる日が来るかもしれませんが、今はまだその「時」ではありません。その代わり感謝の「時」です!そんな自分にとってぴったりくるのは万葉集、額田の王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌です。

「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 」

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暗黒の海原を見つめる日々がやっと終わり、明るい月が海原を銀色の鏡のように照らします。そして、舟を漕ぎ出すに必要な満ち潮の「時」が刻々と迫ります。神様が用意してくださった完璧な「時」、これこそ私が、この1年間待ち侘びていた「時」です。自分の信仰という小さなカンテラを小舟の舳先に掲げ今、一人静かに主への賛美を口ずさみながら、ゆっくりと漕ぎ出るところ。聖霊様に出会い、古い私は過ぎ去り、新しく生まれ変わりました。これからは、新しい自分が誰なのかを聖霊様の導きによって知るでしょう。この航海がどれほどの期間で、どの航路をとるかは未知。わかっているのは、命ある限り主が羅針盤ということ。そして、この舟の主は聖霊様で私が自力で漕ぐのではありません。万葉集だけでなく、聖句のひらめきも与えられました。

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「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」
ーー 詩篇119:71